Wild Rat Fireteam |
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第10話 走り疲れたテセラがふと周りを見渡すと、そこは先程の場所とは遠く離れたところだった。 周囲を囲む城壁が、王城の明かりをわずかに反射している。 息を整えて深呼吸すると、遠くから微かに馬の嘶く声が聞こえた。 畜舎が近いのだろう。 ……戻らなくちゃ。 まっ先にそう思ったが、脚は動かない。 王子はきっと心配しているだろう。彼の報告を聞きつけた近衛たちが、今頃自分を探しに来ているかもしれない。 このままでは大きな迷惑をかけてしまう。 ……だが、脚は石のように固く動かない。 今更、戻ったところで彼になんて言えばいいのか、テセラには思い浮かばなかった。 戻ったら、まずは逃げ出した無礼を謝らなければいけない。その次に彼は何と言う? 婚姻の話を避けては通れない。 彼の前で決断を迫られたら、私はどうすればいい? よしんば今日の返事を保留にできたとしても、いつかは返答をしなければいけないのだ。 それはいつ? 王子の追及を免れたとしても、父は何と言うだろう? そして、ぐずぐずと返事を先延ばしにしようとする私の態度を見て、どんな罵声を浴びせるのだろうか? 鉛の様な重い想像が、テセラの心にのしかかる。 ……戻れない。 ぎゅっと身体が縮こまる。 遠くにぼんやりと見える城の明かりから目を逸らしたそのとき、畜舎の方から馬ではない別の動物の唸るような声が聞こえた。 グルルル……と低く響くその声の主は、塀の向こうからするりとテセラの前に飛び降りた。 狼だ。 くすんだ灰色の体毛を逆立てて、狼がこちらに向かって威嚇している。 「……!」 野生動物が王城へ侵入するのは、珍しい事では無かった。 番兵の目をかいくぐり、野犬や狼が城内を闊歩しているところを、テセラは何度か見たことがある。 だが、それは「傍に近衛がいる」という状況下だ。 今は、そばに守ってくれる人は誰もいない。 テセラは狼の方に向き直り、ちらりと横目で右後ろの壁を見やる。 立てかけてある武器は長剣が3、短槍が2。 距離にして3〜4メートル。 狼から一瞬でも視線を逸らし、武器を取りに行くか。 それとも数十秒、魔法詠唱の時間を稼ぐか。 逡巡し……そして、狼に背を向けて短槍の方へ駆け出した。 ガアッ、と短い威嚇の声を背に聞きながら、テセラは右手に槍をとる。 振り返った瞬間、息をのんだ。 狼は地を蹴り、テセラの頭上で獰猛な歯を見せながら今まさに食らいつかんととびかかってきたのだ。 思わず、槍を構えた腕を固く縮こめる。 ああ、間に合わなかった。 強くつむった瞳の奥でそう考えたとき、鈍い音と狼の弱弱しい鳴き声が聞こえた。 そして、なにかが地面をこすった様な音と共に静寂が訪れる。 テセラは目を開ける。 そこには、槍を構えて狼をにらむエストの姿があった。 地面に叩きつけられていた狼は、軽くエストを一瞥すると一目散に逃げだしていった。 「……逃げたか」 そう言うと彼は軽く息を吐き、槍を肩に担いだ。 そして、驚きのあまり硬直するテセラの方に向き直る。 「バカ! なにやってんだこんなところで!」 「え、あ、あの」 エストこそ、こんなとこで何を? 私、助かったの? あの狼を追い払ってくれたの? 色々な「?」がテセラの脳内をぐるぐると駆け回り、一向に文章としてまとまらない。 明らかに混乱している彼女をよそに、エストは喋りつづけた。 「あの狼はなんだよ? まさか、あの王子に嫌がらせされたのか!?」 「ち、違うの! あれは偶然よ! 王子は何も……」 「なんだ。なら、戻るぞ」 す、と差し出されたエストの手を、テセラは躊躇した表情で見つめる。 エストは首をかしげる。 「……どうした?」 どうしたもなにも。 テセラは手を取れず、槍を握ったままだ。 どうしたもなにも、私、あなたにあんなに酷いことをしたのに。 何もなかったかのように、手をとれるわけ、無いじゃない。 「……私」 そう言いかけたテセラの表情を見て、やっとエストは察した。 「あっ……」 出した手は、ゆっくりと引っ込まざるを得なくなる。 そして、沈黙が場を包んだ。 冷たい夜風が静かに吹く。 馬の声が遠くから聞こえ、ようやく2人は動いた。 「テセラ、その槍戻せよ」 「あ、そ、そうね」 テセラは、ずっと握りっぱなしだった槍を壁に立てかける。 そっと、優しく槍から手を離し、彼女は思った。 このままではいけない。 ……エストのことも、ちゃんと区切りをつけないと。 ……このままでは、3年前と私は何も変わらないままだ。 「エスト。ごめんなさい……。戻る、戻る、から…… ちょっとだけ、あなたと2人でお話しさせて」 *** 畜舎の方へ少し歩くと、そばに木箱が積み上げられている場所があった。 高さにして約2〜3メートルほど。 エストはよじよじと木箱に上ると、一番上に積み上げられているところで座り込んだ。 ……相変わらず、高いところが好きなんだから。 テセラは少しだけ苦笑する。 3年前、民家の屋根から飛び降りてディーナと自分の前に躍り出た光景をテセラは思い出した。 テセラも、運動神経が鈍いわけではない。 このくらいの木箱を上ることくらいは簡単だ。 ドレスの裾に気をくばりながら、テセラも木箱をよじ登る。 あえてエストの隣ではなく、90度横になるような位置に座った。右を向かなければエストの身体が見えない。 テセラは風にたなびく草へ視線を落としながら、ぽつりと訊いた。 「エストは……3年前の急襲のこと、どう……思っているの?」 視界の右横で、わずかにエストの顔がこちらを向いたのに気が付く。 だが、あえて自分は彼の方を向かずにいた。 数秒の後、返事が返ってくる。 「スラムの事は、正直……悔しくてたまらない。 あの日、結界がもう少しスラムの方まで届いていれば……父さんや弟は助かったかもしれない、って思うと、さ。 ……でも、テセラだって悪意を持ってやったわけじゃないってことはわかるし……。 ……整理がつかないんだ。気持ちが、ぐるぐる回ってるみたいでさ」 「……うん」 予想は合っていた。 自分は彼の家族や故郷を奪ったのだ、悔しい気持ちや悲しい気持ち、恨む気持ちがあって当然のことなのだ。 ……やっぱり、私は彼の傍にいてはいけない。 身分も、立場も、罪状も……何もかもが、彼と違いすぎる。 それが分かっただけで、十分だ。 テセラは決心した。 エストに別れを告げようと、口を開いた瞬間……エストは木箱の上で立ち上がった。 エストはテセラの方ではなく、城壁の向こう側を眺めている。 「けれど、」 そういって、エストはテセラへすっと手を差し出した。 今度はエストの手をとり、テセラも木箱の上へ立ち上がる。 城壁を超えた眼下には、城下町の明かりが広がっていた。 いつの間にか日は落ち切って、山脈の端からわずかな残照が消えかかっている。 暗い橙がすうっと消えて、濃紺の空へと綺麗なグラデーションを作っていた。 そして、その空の下には、城下町の家々や街路灯から漏れている何百もの明かりが広がっている。 数十年前。炎魔法の整備により、この城下町は夜でも眠らない街となった。 何度も、自室の窓から眺めた街明かり。 窓ガラスを介さずに直接明かりを眺めたのは、久々だ。 「テセラはあの日……この街明かりを守ったんだよな」 眼下に広がる明かりに見惚れていると、そんなエストの言葉が来た。 思わず、彼の方を向く。 エストは街明かりから、ゆっくりとこちらを向いた。 その表情はテセラの予想に反して、とても穏やかで優しいものだった。 「城の人たちを、この景色を、守ったのはお前だよ」 テセラは何も言えず、そっと城下町の方へ向き直る。 街明かりが揺らめいて、滲んでいくのを、彼女はどうしようもできない。 何かを口に出そうにも、声すら出せなかった。 「自分で守ったものは最後まで守り抜かなきゃいけない。 自分のやったことには責任を取らなきゃいけない。 ……だから、辛いからって、逃げ出しちゃダメなんだ」 テセラは、エストの言葉に黙って頷いていた。 ……逃げてはだめだ。 ……3年前のあの日、私は確かに「選択」をした。 王城を、城下町を守るために、人の少ない地帯を切り捨ててた。 その結果が、この街明かりだというのなら…… 私はこの明かりから逃げてはいけない。 この先の未来に待ち受けているであろう選択から、逃げてはいけない。 「……城に戻るわ」 やっとの思いで、声を紡ぎだした。 声は震えているが、もうそんなことは気にしていられない。 王子の元へ戻らなくては。 城のみんなが、待っている。 エストは黙ってうなずくと、木箱を軽やかに降りた。 そしてテセラの手をとって、木箱から降りるのを介助する。 とん、とテセラが地面に着地したのを見ると、エストは手を離した。そして2メートルほど前方を歩く。 おそらく、泣きそうになって変にゆがんだ自分の顔を見ないようにしてくれている配慮なのだろう。 テセラも何も言わず、彼の後ろ姿をついて行く。 3年前、ぼろぼろの服を身にまとって、自分のサークレットを盗んで逃げようとしたあの小さい背中。 当時は自分よりもすこし背が低かった記憶があるが、今ではもうすっかり追い越されてしまっている。 あの背中が、あっという間にこんなに大きくなってしまった。 彼の背を見つめていると、自分はまだ「ステラ」である気がしてくる。 王城を飛び出し、王女という肩書もテセラという名前すらも捨てて、自由の身に憧れた「ステラ」という偽名。 こうしている間だけは。 エストの背中を追って、この夜の影に隠れている間だけは、自分はまだ自由な身でいる気がしている。 だけど、そのままではいけない。 城の明かりの下に戻れば、私は「王女」なのだ。 その前に。 城の明かりに照らされる前に。 「王女」に戻ってしまう前に。 一つだけ、伝えておきたいことがある。 「待って!」 呼び止められたエストが振り返る。 3年前も、そうだった。 城を逃げ出した私を、エストは正しい方へ導いてくれた。 あの日私をかばってくれた背中は……とても、とても大きく見えた。 その背中に惹かれていたのは、いつからだろう。 サークレットを外す。 あの日のように。 3年前、「ステラ」という街娘のフリをして、スラムのスリの少年に出会った日のように。 「エスト」 「どうした?」 この言葉に責任を取らなきゃいけない日が来るかもしれない。 これは、茨の道へとつながる言葉なのだと、分かっている。 それでも……私は、彼に言いたい。 「あなたが好きです」 テセラは彼の表情を見据えて、まっすぐに、そう言った。 驚いた眼が見開かれる。そして一呼吸の後に、彼は視線を逸らした。 テセラは、それでもエストから視線を外さなかった。 自分が我侭なのは分かっている。 これは叶ってはいけない恋なのだと、分かっている。 けれど……それでも伝えたかったのだ。 「テセラ、オレ……」 「いいの」 テセラは小さく首を横に振り、続ける。 「いいのよ……。返事は言わないで。あなたが返事する必要は無いの」 伝えられただけで、十分なのだ。 これは叶ってはいけない思いなのだから。 「戻りましょ?」 エストの横を抜け、王城の方へ戻るテセラを…… 「待てよ!」 エストが袖をつかんで止めた。 「返事言わなくていいとか、そんな勝手なことがあるかよ……! オレだって、オレだって……!!」 掴んだ袖をぐい、と引っ張り、エストはテセラを抱き寄せた。 「何のためにオレが兵士になったと思ってんだよ……」 「えっ……」 「オレも好きだ。テセラ」 耳元でささやかれたその言葉を、テセラは心の中で反芻した。 これは叶わない恋。 叶ってはいけない恋。 ……だけど。 今だけは。 王城の明かりに照らされていない、今だけは。 この人の恋人でいさせて下さい……。 夜の帳が静かに降りる。 星空の照らす影の中、2人は静かに幸福を噛みしめていた。 |
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