永劫のアナスタシス<通常版> バージョン0.317 ご覧いただき、ありがとうございます。このデータは「永劫のアナスタシス 通常版」の一括テキストデータです。スマホに入れる、pomeraに入れる、印刷しておくなど、オフライン環境でまとめ読みする場面でご活用ください。ウインドウズの場合、ctrlキーとAキーの同時押しで本文をすべて選択することができます。 このデータに挿絵はありません。また、ピクシブ版やTwitter版と改行位置・ルビの処理が異なります。 本小説の表現は、今後の改稿で修正される場合があります。 再配布など、第三者へ共有することはお止めください。私的利用にとどまる範囲でしたら、ファイルの変換やレイアウトの改編など、ご自由にご利用ください。 現在、バージョンは0.317です。第3章17話まで掲載されています。 この小説には、暴力的な描写、凄惨な描写、流血描写、自殺を示唆する描写、性的な表現を示唆する描写が含まれます。 2023年1月2日 常磐光紀 連絡先:https://potofu.me/re-anastasis   *****1-1***** そよ風に揺れる木の葉の音を、二つの足音が切り裂いた。 昼下がりの穏やかな木漏れ日を遮るように、二つの人影が全速力で走り抜ける。彼らは逃亡者だ。二人とも荒い息を吐きながら、後方にいる追跡者の視界から逃れようと、必死に脚を動かしていた。 後頭部で一つに結わえた長髪を揺らし、青年は走りながら背後を振り返る。自分のすぐ後ろに、ちゃんと相棒がついてきていた。しかし幼い相棒の疲労は、既に限界に達しているようだ。顔をしかめ、頬が紅潮している。 青年は、そのさらに後ろへ注視した。四つ足を繰って木々をかき分け、口から牙をのぞかせながら、こちらに走り寄る黒い追跡者がいた――それは、熊だった。 森林を歩いていたところ、視界の前方にいた獣に気がついたのはほんの数分前。向こうに気づかれる前に退避しようとしたが失敗し、現に今、こうして追いかけ回されている。 「レネえ! ま、まだ追ってきてる!?」 レネ、と呼ばれた青年は、背後の子供に返答する。 「ああ! もう少し走れるか!?」 「もう限界だよ!」 子供はそう叫びながらも、走る速度を落とさずに腰へ手を伸ばし、鞄の留め具を外す。中からとりだしたのは、一冊の分厚い本だった。茶色の地に金色の文字をあしらい、表紙にも裏表紙にも円形の複雑な図形が描かれている。小さい手には似つかわしくないほど重厚な装丁だ。 レネは、それが何の本であるか知っていた。魔導書だ。あらゆる攻撃魔法の呪文が、それには記されている。走るだけで限界だと思っていたのに、まさか魔法を放つつもりなのかとレネは目を疑った。 「おいモルテ、走りながらできるのか?」 モルテと呼ばれた子供は、本の中身をめくりながらも足を止めない。 「当たり前だよ! 僕は偉大な、魔導師になるんだから、これくらい!」 虚勢を張りながらも、やはり息は上がっている。 本当に大丈夫だろうか? 熊から逃走しながら、レネはもう一度後ろを確認した。距離が先ほどよりも縮まっている。体格からしてまだ幼いが、それでも熊は熊だ。もしも追いつかれた場合の顛末を想像したくはないが、その《もしも》は目と鼻の先まで迫っている。 モルテの声が聞こえる。詠唱だ。手に持つ分厚い魔導書が、レネの視界の隅で淡く光を帯びはじめた。 「ちなみに、火炎魔法じゃないんだろうな!? ここで放ったら森林火災だ!」 モルテは肯定も否定もしないまま、続けた。聞こえていないわけはない。おそらくその辺はちゃんと配慮しているのだろう。モルテの攻撃魔法の詠唱が終わるのが先か、熊に追いつかれるのが先か―― そう思案した瞬間、レネの視界からモルテが突然消えた。 「!?」 走り去っていく光景の斜め下を見る。モルテは蔓に躓き、うつぶせに倒れていた。 「おい馬鹿……!」 すぐに戻り、小さい体躯を拾いあげて脇に抱えた。もう一度振り返り、また走ろうとする。しかし、距離も時間も足りない。熊はもうすぐそこだ。 ――こうなったら。 「モルテ! 受け身だ!」 そう言い放ち、視線は熊を捕らえたまま、レネは相棒を真後ろへ放り投げた。小さくて軽いモルテの体は一瞬宙に浮く。 「え、ちょ、レネえええええ!?」 がさがさがさと音がした。下は土と草木だ。受け身がとれなくても死にはしない。 モルテを放り投げた右腕を、自分の左腰に伸ばす。剣へ触れようとするが、間に合わない。すでに熊は大きな口をあけ、その鋭そうな牙でこちらへ飛びかかっていた。 「く……!」 抜刀をあきらめ、とっさにレネは左肘を前へ突き出す。顔を守るように差し出した腕に、熊は勢いよく噛みついた。 「……っ!」 激痛が走る。腕の半分を覆うようにレザーの装甲をつけているものの、大きな牙は肉まで貫通して離さない。焼けるような感覚とともに、牙と肉の間から血がしみ出していた。腕を伝い、牙へと流れ、熊の口腔を赤黒く染め上げる。 苦痛に顔をしかめながら、レネは懇願した。 ――頼む、早く効いてくれ。 それと同時に、低い叫び声を上げながら熊は口を離した。レネの左腕を解放し、黒い巨体はそのまま地面に伏せる。口と目から赤い体液が流れていた。びくびくと数秒間けいれんした後、ぴくりとも動かなくなった。 熊が絶命したのを確認し、安堵の息を吐いた。それと同時に、後ろから軽い足音が近寄る。 「レネ、また無茶して! すぐ洗わないと化膿しちゃう」 そう言いながらモルテは手を伸ばす。手当てをしようと差し出された手を、レネは 「触るな」 と右手で振り払った。 相棒の両手がぴくりと止まった。言葉を失って、押し黙っている。 「知ってるだろう。触れたら、ああなるぞ」 レネは言い放つ。それは、言葉通りの意味だった。背後には、自分の血に触れたせいでたちまち命を奪われた獣がいるのだから。 左腕からは、まだ静かに血が流れていた。右手で水が入っている瓶を取り出し、レネはモルテに差し出すのだった。 「自分で手当てできる。蓋を開けてくれないか?」 *****1-2***** 小鳥の囀りで目が覚めた。 レネは身をゆっくりと起こす。朝のやわらかな光を透き通して、木々の梢がさわさわと揺れていた。森の中を進んで数日が経つ。小さい倒木を見つけて枕代わりに寝るのも、すっかり慣れてしまった。 「おはよう、レネ」 声の方を見ると、モルテが歩み寄ってきた。先に起きていたようだ。 「傷はどう?」 そういえば昨日熊に噛まれたんだった。幸いにも痛みはない。大丈夫だ、と言いながらレネは後ろの土を見る。そこは、昨日傷口を洗い流したところだった。血に混じった水が地面に垂れて、生えていた草木が枯れている。 レネの体液は毒性を帯びる。 口に含めばたちまち血が溢れ、数秒の後に死を迎える。肌に塗りつけただけでは平気だが、粘膜や傷口から侵入した場合は少量でも致命的になる。元からこうではない。七歳のある日を境に、こうなってしまった。年月が経過するにつれ、血液だけではなく唾液や汗も反応するようになった。 熊ですら命を奪う猛毒を抱えながら、レネ本人はいたって健康だ。しかし、自身の身体には確かに毒が流れている。毒性の高さは徐々に進行し、周りの命を枯らしていく。単なる病では説明がつかなかった。この事象を正しく形容するならば、これはきっと《呪い》なのだろう。 「レネ、お腹すいたでしょ?」 モルテはフードの中から果物を取り出し、こちらへ一つ放り投げた。右手でキャッチする。黄色くて丸い身を、レネは皮も剥かずに一口かじった。甘酸っぱい。良く熟れている。 モルテは隣に腰をおろし、自分の分の果物を取り出した。 「ん、おいしい」 レネと同様に皮ごとかじりながら、にこにこと食べ始める。 「モルテこそ、昨日転んだ傷は平気なのか?」 「ちょっと擦りむいただけですー。それより、どこかの誰かさんに投げ飛ばされたおかげで背中がちょっと痛いですけど」 恨みがましく言われた。そこまで昨日のことを根に持ってるのか。 「まあ、僕は自分に治癒促進の魔法をかけてるからじきに治るけど。レネは僕の治癒魔法効かないんだから気をつけてよね」 「はいはい」 自称、偉大な魔導師の卵。モルテは自分をそう表現し、魔法に関することに誇りを持っている。しかし、それでもできないことはあるようだった。呪いを受けた自分の身体は、モルテの魔法の理から外れているらしい。 「でも、安心してよね。次に熊がでたら噛まれる前にやっつけてやるから」 「どうだか」 「大丈夫だよ。僕、強いから」 にやりと、夕焼けに似た色彩の瞳を細めてモルテが笑った。ずいぶんと得意げだ。出会って半月――だいぶ対応に慣れてはきたが、未だにこの小さな相棒に振り回されている気がしてならない。 気づかれないようにため息をついた横で、モルテに尋ねられた。 「魔力の強さはどう?」 レネは後頭部の紐をほどき、眼帯を外した。青緑の左目とは明らかに違う、黒と赤の色彩に染まった右目が姿を現す。レネは両目で西の方角にあたる川の上流を見つめた。 「……ああ、やっぱり強くなってるな」 「そっか。なら、方向は間違ってなさそうだね。良かった」 レネも頷き、眼帯を再び装着する。 呪いの影響はレネの体液だけではなく、右半身も蝕んでいた。生来青緑だった瞳は右のみ赤く染まり、普通の人間には見えない魔力をとらえるようになっていた。それは魔導具にも、魔物にも反応した。レネの視界はモルテ自身と魔導書にも反応しているが、あきらかにそれらとは違う波動が川上から流れている。上流へ進めば進むほど、強く濃くなっていた。 眼帯を外したままにするより、間欠的に見たほうが魔力の強さの変化が分かりやすい。川の上流にそって進んでは眼帯を外し、もう少し進んではまた眼帯を外すことを繰り返していた。 「モルテ。やっぱりこの魔力はリヴァーディアから来ているんだろうか?」 「多分そうだと思うよ。そこの先住民は魔法の扱いに長けていたらしい。この大森林の中に、リヴァーディア以外で明らかになっている集落や居住地はないんだ。そこからの魔力だと思うのが、一番自然だと思う」 なるほど、とレネは頷く。 「それなら、やっぱり向かうしかないな。食べ終わったら出発しよう」 「そうだね――リヴァーディアにレネの呪いを解く方法があるのなら、一日でもはやく到着したほうが良い」 「同感だ」 レネは果物の芯を傍らに置き捨て、眼帯を右目に当てた。 ――この右目が元の色に戻るのなら。この体液が、人の命を奪わないものに戻るのなら。森の中だろうが、火の中だろうが、どこへだって行ってやる。 後頭部で眼帯の紐を確(しっか)りと結び、レネは立ち上がった。 *****1-3***** 「ここだ」 眼帯を右手に持つ。両目で眼前の景色を見つめながら、レネは言った。 二人の正面には普通の森林の光景が広がっていた。しかし、レネの呪われた右目は違う。薄赤色の障壁が、すぐ目の前に張り巡らされていた。上端は木々の梢に隠れて見えない。左右の端も視界の奥まで伸び、森の陰へと消えていた。障壁は半透明で奥の景色が透けて見えるが、内側もさらに森が続いている。障壁は明らかに大森林を内側と外側に区切り、外部との交通を阻んでいた。 「この障壁から強い魔力を感じる。俺がずっと感じていた魔力の源はここだ」 その言葉にモルテは首をかしげていた。どうやら何も見えていないようだ。普通の森の景色が、奥まで続いているように見えるらしい。 「レネのいう景色が本当なら、かなり大きい障壁だよ。こんなの、誰が張ってるんだろう……」 手を下顎に当てて考える。長考する相棒の横で、レネは一歩前へ歩む。 「触れてみるか」 「え」 ちょっと待って、とモルテが言う前に、レネは右手を前へかざした。一瞬の抵抗を感じた後、手は障壁の奥へと通り抜けた。痛みも何もない。どうやら歓迎してくれるようだ。 「……何も起こらないな」 後ろでモルテは口をぱくぱくさせつつ、レネの顔を覗き込む。 「なにも、起きてないの?」 「ああ。右手だけ奥へ通り抜けた。このまま進めそうだ」 そう喋りながら、レネは奥へ一歩進んだ。さきほどの抵抗を一瞬だけ全身へ感じ、障壁の奥へと入り込んだ。 「大丈夫だ、モルテ。来い」 レネは振り返る。赤い半透明の障壁の奥で、絶句しているモルテが見えた。 「……そこで立ってても変わらないぞ」 「君って、慎重なんだか大胆なんだか分かんないよ」 モルテは独りごちて、障壁の内側へと一歩進んだ。 外側と同じ景色が、奥にも続いていた。鬱蒼と茂る木々を避けながら、二人は奥へ奥へと足を運ぶ。レネの後ろをついて歩くモルテが、ふと顔を上げた。そのまま突然レネを追い越し、前へ走りこむ。 「見て、レネ。看板だ」 小さい手が指す方向に、木製の看板が見えた。枝と板を組み合わせただけの、簡素なものだ。こちらから見ると、看板は後ろ向きだ。モルテと一緒に表へ回り込んで、書かれている文字を見る。 「……『ここから先 障壁』」 かすれているが、見慣れた文字だった。板も古びている。あまり新しいものには思えなかった。 「看板があるってことは、ここには人が住んでるんだ! やっぱりここはリヴァーディアなんだよ!」 相棒の笑顔が輝く。自分の中にある仮説が真実みを帯びてきたことが、よほど嬉しいらしい。 レネもその気持ちは一緒だった。幼少期に呪いが発現して、それから長年呪いを解く方法を探して様々な地を旅してきた。しかし、決して実りの多い旅路ではなかった。モルテと出会い、情報を得て、ついにここで有力な手がかりを掴もうとしている。 だが、これまでの旅人としての経験が、自身の心の奥底で警鐘を鳴らしていた。 相手は巨大な障壁を張れるほどの高等な魔法を持ち、警戒を怠らない集団だ。その魔法障壁も、野生動物用にしてはあまりにも規模が大きすぎる。大森林を歩いて何日も経過しているが、二人は魔物に一度も遭遇していない。自然に考えるなら、これは《人間》を阻むものであろう。では、何故二人とも通過できたのか。 「……どうして俺たちは、障壁の中へ入れたんだ?」 意気揚々と進むモルテの後ろで、レネはぼそりと呟くのだった。 *****1-4***** 冗長な森林の風景が、延々と続いていた。モルテが発見した看板以外の人工物は見つからず、障壁の外側と変わらない視界ばかりが広がっていた。そんな光景が終わったのは、日が傾き始めていたころだった。 景色の奥に、それは現れた。枝葉の隙間から見える、茶色の大きな影。近づくとそれは民家の外壁だった。さほど大きくなく、木材を粗雑に組んだものであったが、確かに家だ。屋根も壁も蔓に飲み込まれ、戸や窓は壁から外れて落ちている。中は当然無人だったが、埃に埋もれた机やベッドが残っていた。 レネとモルテは中に入る。ベッドの上の埃を取り払いながら、改めてレネは室内を確認した。 机の上には食器。さらにその中は、変わり果てた食物が黒く固着している。衣装箪笥の中には、比較的清潔な服と布が綺麗に畳まれていた。 違和感をおぼえた。年月こそ経過しているが、何もかもが残りすぎている。 「モルテ。どう思う?」 「何かあったのは間違いないでしょ。避難しようとして、間に合わなかったってところかな」 そう話しながら、モルテは部屋の隅を指さした。床に細かい破片が取り残されていた。小さく散らばったそれは茶色く薄汚れているが、おそらくもともとの色は白なのだろう。一つをモルテが拾い上げ、自分の口元へかざした。 「どうみても人間のだよ、これ」 破片は斜めに砕かれていたが、上端に歯と思しき突起が並んでいた。下顎の骨だろう。丸い臼歯が綺麗に並んでおり、サイズ感と歯の形状を鑑みるに、人間のものであることはレネにも理解できた。 「下の床も黒いシミがべっとり。ここで殺されたんだろうね」 眉根を寄せているが、モルテの語り口は淡々としていた。拾い上げた骨を元の場所に戻し、腕を組みながら室内を見渡している。およそ子供らしくない言動にレネは当惑したが、今に始まったことではない。モルテに気づかれないように、静かに小さくかぶりを振った。 がさ、 と、草木が揺れる音が二人の耳に届いた。二人ともほぼ条件反射的に、かがんで壁に身を隠す。息を殺し、音がした方向へそっと窓から顔を出した。 鹿だ。距離は離れているが、若い鹿が森の中を歩いていた。 「……どうする? 手持ちの食糧、減ってきてたよね」 モルテは背負った弓を構えようとする。しかしレネは制した。子鹿の奥から、母鹿がついてきた。親子は互いに目線を合わせると、ゆっくりと踵を返していく。 「まだ余裕はあるさ。やめておこう」 微笑むレネに、モルテの表情も和らいだ。 「……レネらしい」 親子の背中を見送ろうと、二人が立ち上がったと同時に。 重い地響きのような振動と音が急速に近づいてきた。 突如来訪した異変を、鹿も察知していた。二頭は姿の見えない主から逃げるように、一目散に駆け出す。その奥で、木々の間から白くぶよぶよとした塊が僅かに垣間見えた。連なる幹に隠れ、全容は分からない。白い巨躯は低木をなぎ倒し、瞬く間に鹿を追い上げる。二人が覗くすぐ前で、それは森の中から躍り出た。 目も鼻もないのっぺりとした白い顔を、燃えるような赤い鬣(たてがみ)が囲っている。頭部を横に割くように割れた巨大な口の中からは、乱雑に敷き詰められた牙がのぞいた。分厚くたるんだ白い皮膚に包まれた体躯が、派手に音を立てて森を踏み倒す。身体を動かすのは、立派な体幹とはあまりにも不釣り合いな小さい手足。 あらゆる動物の特徴にも当てはまらない。無機質で不気味な相貌は、まさに《魔物》と形容するに相応しい。 子鹿は、魔物に追いつかれた。魔物は地面を蹴って一瞬跳躍したかと思うと、体当たりで鹿を叩き飛ばした。子鹿の小さく華奢な体躯は無残にも幹に叩きつけられ、地面へと崩れ落ちる。首があらぬ方向に曲がっていた。どうみても絶命している。母鹿は遠くに走り去っていた。 まるで子供の遊びだった。原型をとどめなくなった血肉を食糧とするでもなく、その行為を愉しんでいるかのように魔物は繰り返し叩いていた。 レネとモルテは絶句した。動物がほかの動物を屠るのは、食べるためか縄張りから追い出すためだ。しかし、今の光景は両者のどちらでもない。明らかに恣意的に、残虐に、あれは子鹿をなぶり殺した。そしてさらに異質なのは、魔物の大きさだった。 「なんだ、あの大きさは……」 木々の梢に鬣が触れる。子鹿の胴体が魔物の掌に収まりそうなほど、圧倒的な体格の差。おそらくレネ達が身を隠しているこの家と、体高はさほど変わらないだろう。小型の魔物に遭遇したことは何度もある。しかし、あんなにも巨大な魔物を見るのは初めてだった。 ――そのとき、魔物がこちらを振り向いた。 *****1-5***** 冷ややかな感覚が、二人の全身に走った。何故、目も鼻も耳もないのにこちらを察知したのか分からない。しかし二人の直感は知らせていた。 ――あの魔物と、確かに今、目が合っている。 レネは眼帯を咄嗟に掴むと、乱暴に取り去った。露になった右目で魔力を視る。血のような深い赤と、毒花のような鮮やかな紫。まだら状に混ざり合って、濁った黒を作り出していた。今まで遭遇した小型の魔物よりも深くて強い魔力が、あたりを包んでいる。暴力的な色彩に、レネは顔をしかめた。 この色はあまりにも、見慣れている。 魔物が足をこちらに進めた。足こそ小さいが、体格そのものは巨大だ。一歩一歩と粗雑な歩みで、確実にこちらへと向かってきている。 「来るぞ!」 レネは叫びながら窓を乗り越え、家の外へ出た。左腰の剣を抜き、地を蹴る。 最も合理的な選択は逃走することだと、わかっていた。しかしあれには感覚器官が見当たらない。目くらましも攪乱も手立てがなく、鹿に容易に追いつく脚を持っている相手には、逃走なぞどう考えても不可能だ。ならば、闘う他に生き残る道はない。 モルテは魔物へ走り寄るレネを視界にとらえながら、魔導書を取り出した。 彼と同行するようになってから何度か戦闘の場面があったが、事前に彼から依頼されたルールがあった。それは、戦闘中は決してレネに近づかないこと。敵ではなく自分と距離を保って戦闘するように、レネは相棒に要請した。 最初は意味が分からなかったが、今では理由が分かる。レネの血液から、モルテを守るためだと。 敵からも、自分の呪いからも守る。決意を負った背中を、モルテはいつも見届けていた。だからこそ、モルテも決心しなければいけなかった。彼の相棒として、全力で、未来の《偉大な魔導士》としての役目を全うすると。 頁をめくる。攻撃魔法の章を開き、見慣れた記述を発見したところで指を止めた。詠唱が短く済み、それでいて大型の魔物の機動を削ぐような効果があるもの。モルテは意識を集中し、詠唱を開始した。 レネは敵の右側を駆け抜け、背後へと回り込んだ。巨大な体格の魔物は、大体は動作が遅い。一瞬の隙を見逃さず、剣を振りかざせば勝てるかもしれない。 頭上に、後ろ脚と短い尾が見えた。狙うべくは、後ろ足の届かない、尾の真下。レネは自身の両足で地面を踏みしめ、全力で剣を振りかぶり、薙いだ。 しかし、切れた手ごたえが残らない。表皮を多少切り裂いたものの、分厚い皮下組織が刃の摩擦を受け止めている。舌打ちし、切っ先を戻した。敵がこちらを振り返る。赤い鬣が揺れたと同時、不気味な口が開く。 咆哮が轟いた。獅子にも竜にも似た、荒々しい空気の波がレネの鼓膜を刺す。反射的に目をつぶり、耳を塞いだ。 ――目を、つぶってしまった。 気が付いて目を開けたときには遅かった。魔物の胴体が視界のすべてに覆いかぶさる。斜陽を遮り、一瞬の闇の後に激痛が全身を殴り飛ばした。後頭部と背中に木の枝が飛んで突き刺さる。華奢な低木の数本をなぎ倒し、レネの身体は地面へと激突した。 多少小さく遠くなった魔物が、こちらをなお追いかける。しかし今の一撃で後頭部を打った。景色はぶれて、手足がいうことを聞かない。 一歩、一歩と白い手足がこちらへ来る。 ――あの子鹿のように、自分も血肉の塊になるのだろうか。 せめて、剣を。 武器を求めて伸ばした右手が、空を切る。あまりにも悔しくて、握りしめることしかできない。 その時、モルテの声が響いた。 『真空波(ラーミナ・カエレスティス)』 緑色の淡い光が、奥できらめいた。魔物の皮膚は幾つもの見えない波に切り裂かれ、赤紫の血が宙を舞った。再び魔物の咆哮が響くが、さきほどよりも明らかに短く弱かった。 血は草木に飛び散り、あたり一帯を染めていく。汚れた草木は、瞬く間に枯れてしなびていった。命が枯れていく光景を目の当たりにし、レネは痛感した。 ――やはり、あいつは俺と同じだ。 時間が経過して、手足の感覚が戻ってきた。あちこちが擦り切れて、血だらけになっている腕を右目で見つめる。魔物の黒い魔力であたり一帯が霧のように霞んでいるが、レネ自身の魔力は視認できた。深い赤と、毒花のような紫。強さも濃さも魔物が放つそれには劣るが、まだらに混じりあった黒を、レネ自身も纏っていた。 右目が視えるようになってから、ずっと見てきたもの。あの魔物と同じ、暴力的な色彩。見慣れすぎて、嫌になる。 レネは身を起こした。ガンガンと鳴り響く頭痛で身体がよろけるが、両目と手足は機能している。敵を排除するには十分だ。すぐそばに落ちていた剣を拾い上げ、切り傷だらけで蹲(うずくま)っている魔物へと歩みを進めた。 奴には動く気力が残っていないらしい。レネがすぐ目の前にいるのに、何もしようとしてこなかった。ならば、ためらう理由は何もない。 「じゃあな」 柄を逆手に持ち、剣を掲げる。足を前後に開き、全身を使って、 額に剣を突き刺した。 断末魔はなかった。静かに赤紫の体液が吹き出し、レネの全身を染め上げる。 剣を引き抜こうとするが、身体の力が抜けていく。未だに重く鳴りやまない頭痛が、意識を急速に奪っていった。 *****1-6***** 『治癒(クーラト)』 もう何度目の詠唱になるだろうか。血まみれで地に伏している相棒の傍らで、モルテは繰り返し治癒魔法を試みていた。 詠唱にミスはない。どう考えても正しい方法で魔法をかけているのに、レネにだけは効果が現れない。もう数えるのも嫌になるほど同じ呪文を繰り返した。それでも、結果は自身の魔力が浪費されるだけ。 『治癒!』 無駄打ちに終わる魔法。半分自棄で叫ぶように言い放った詠唱も、徒労に終わる。 「……っ、どうして!」 拳を地面に叩きつける。 ――効かない。 この魔力と知識の量を以てしても、効かない。理由も分からない。 ――僕は偉大な魔導師になるのに。こんなところで、躓いて。 悔しくて、握ったままの指先に力がこもる。 レネの目は、固く閉じたままだった。触るなとあれほど言われていたが、そんなことを守っている猶予もなさそうだった。モルテは自分の両手を見る。怪我はしていない。傷口や粘膜に触れなければ、レネの体液に触れても大丈夫なはずだ。 「起きてよ」 レネの肩を叩く。 「ねえ」 しかし強く叩いても、ゆすっても、何をしても起きない。 「ねえってば!」 返ってきたのは、沈黙だった。為す術もなく指を離す。 どうすればいいのか分からず、絶望感に項垂(うなだ)れた。 同時に、背後から僅かに足音が聞こえた。段々と近づいてくることに気が付き、モルテは振り返る。 「大丈夫?」 立っていたのは、柔らかな長髪をなびかせた、白い服の女性だった。 *****2-1***** 頬に布が触れている。柔らかく暖かい感触に任せているうちに、自分が横になっていることを認識する。 「……?」 レネはゆっくりと目を開けた。 目の前で自分の頬をくすぐっていた布は、ベージュ色のシーツだった。身体の上にも、軽い手触りの布がかけられている。そっと外して、身を起こした。 周囲を見渡すと、そこは見覚えのない小さい一室だった。部屋の中央には木製のテーブルと椅子があり、その奥には質素な机がある。そこに向かうようにモルテが腰掛け、本を読んでいた。 ベッドの軋む音に気がついたのだろうか、読書をやめて相棒が振り返った。 「おはよう、レネ。気分はどう?」 気分は悪くない。失神する前にあれほど鳴り響いていた頭痛も、すっかり治まっていた。その前の光景を思い出す。大型の魔物と戦闘し、自分が血まみれで倒れたことを。 「あの魔物は……?」 「とどめはさせてたよ。その代わり、君の手当ても大変だったけどね」 手当て、という単語に反応する。自分の血にも、魔物の血にも塗(まみ)れていた自分を、手当てしたのか? 「触れたのか、俺に」 「だって、そうするしかなかったから」 モルテの表情はあっけらかんとしていた。その行動が、さも当然であるかのような口ぶりだ。しかしレネは違う。レネの体液は、傷や粘膜に触れた者の命を奪う。それは相棒に、何度も言い聞かせていたことだった。 「あれほど言っただろう……! この呪いは進行してるんだ! もしかしたら、そのうち普通に触っただけでも」「その心配は無いよ」 レネの言葉を遮り、モルテは机の上から手鏡を取り上げた。鏡面がレネに向かう。 「え……?」 自分の顔と対峙して、レネは反射する光景に目を疑った。 この右目は、呪われている。瞳は生来の青緑から赤く変わり、いつしか白目の部分も真っ黒に染まっていた。はずだった。しかし、今の光景は違う。両目とも、元通りの青緑だ。右頬に濃く刻まれている紋様もまだ残ってはいるが、心なしか範囲が狭くなっている。 「なん、で……」 頬に手を当てる。信じられなかった。あれほど欲していた光景が、いまここにある。手鏡をモルテから受け取り、左手に持つ。瞬きを繰り返していると、部屋の奥から声がした。 「お体の具合はどうですか」 女性が、ドアの向こうからゆっくりとやってきた。柔らかいプラチナブロンドの長髪をなびかせ、神官を連想するような白い服に身を包んでいる。薄水色の瞳が優しく微笑んだ。 「レネの手当ても、呪いの応急処置も、ぜーんぶこの人がやってくれたんだよ」 モルテは台詞とは裏腹に、どこか不機嫌そうな顔をしていた。 頭痛はない。あれほど痛かった背中もどこかしこも、まったく痛くない。身体を確認するが、包帯のひとつも身に着けていなかった。手当てと先ほどモルテが言ったが、ただの手当てではなかったのだろう。治癒魔法の類であると想像できた。モルテの魔法はあれほどかけても効かなかったのに。どうして。 「あなたは何者なんだ?」 「フォス、と申します。ここ、リヴァーディア神聖王国の治癒師を勤めておりました」 「リヴァーディア……神聖王国?」 モルテが聞き返した。リヴァーディアという地名はモルテから聞いていたが、神聖王国の字面はレネも初めて聞く。しかし、ここがただの集落ではなく王国だというのもうなずけた。巨大な魔法障壁を張るほどの高度な魔力を持ち、また、その障壁が必要であるほどの資源を有する集団。フォスの高貴な服装をみても、ここは普通の街や村ではなく国であるという方が自然だ。 レネは一瞬思考を巡らせた後、フォスに向き直り、口を開いた。 「……勘付いているとは思うが、俺たちは障壁の外側から来た。敵対するつもりはない」 小さく頷いたフォスをみて、今度はモルテが続けた。 「レネの目が覚める前にも伝えたけど、彼は呪いを解くためにここへ来たんだ。知っていることを、教えてくれないかな」 「話をさせてくれないか。あなたのような人をずっと探していた」 「……ええ」 レネの表情をみて、フォスも察したようだった。椅子に腰掛け、レネの顔を見つめる。 「何から……お訊きになりたいですか」 そう訊かれて、レネは一瞬困惑した。 訊きたいことは山ほどある。今まで自分が受けてきたもの、失ったもの、この国に着いてから視てきたもの。自分の中に浮かんでいる様々な思考と仮説が絡み合って、頭の中でもつれていた。 そのもつれをほどくために、どうしても一番先に訊いておきたいものがあった。 「俺の、この呪いは」 言葉が喉につかえる。一度でも声に出してしまえば、もうそれは戻らない。それでも、確かめたい。明らかにしたいことがある。 「この呪いは……これは、人を魔物に変える呪いなんだろう?」 *****2-2***** 長くて白い睫に覆われたフォスの瞳が、一瞬うつむいた。悲哀の表情を浮かべ、レネに投げかけられた問いに答える。 「……はい」 それは、肯定だった。 「あなた方が倒したあの魔物は……もともと私(わたくし)たちと同じ人間でした。ある日両目が赤くなり、全身に紋様が浮かんで、魔物へと姿を変えてしまった。ちょうど、あなたのような経過です」 フォスの視線がレネを指す。言葉と事実が突き刺さり、レネは思わず視線を伏せた。あの大型の魔物と対峙したときに視た、自分と同じ波動の魔力。モルテの魔法が効かなかったのも、これで合点がいく。もともと魔法というのは、人間が編み出した、人間へ利益をもたらすためのものだ。普通の治癒魔法は、魔物には効果を発揮しない。 自分は、とっくに外れていたのだ。人間の世界から、はじき出されていたのだ。 ――自分は、すでに人ではない。 言葉に詰まるレネの横で、モルテがたずねる。 「そんな呪い、どうして……」 「ここは、外部からの侵入者を阻む障壁に囲われた、平和な王国だったのです」 「『だった』?」 「ええ。害獣が街に入り込むことはありましたが、それ以外は豊かな森に囲まれた王国でした。あの……黒き禍殃(かおう)に侵略されるまでは」 禍殃。厄災を指す表現を、フォスは震える声で発した。声色に眠る彼女の畏怖を、レネとモルテも感じ取る。 「まさに、黒い嵐を引き連れた災害でした。それは突然障壁を通過してリヴァーディアに侵入し、焔を撒いて、去って行った」 フォスの白く細長い指先が、膝の上で固く握られる。 「黒い焔が国を焼き、民は次々に魔物へと姿を変えていきました。その様はまさに呪いで……。瞬く間に、国中に蔓延したのです」 しばしの沈黙が流れた後、伏せていたフォスの顔が上がった。 「私は生存者です。あなたのように、呪いに蝕まれて苦しんでいる人たちがここにはまだいます。私の使命は、その方々を魔物化の運命から解放することです」 「解放? そんなことができるのか?」 レネは疑問に思った。この呪いを解く方法を探して、ずっと旅をしてきた。魔術に明るい人間を訪ねては首を横に振られ、呪術に詳しい人間を訪ねてはこの性質を利用され、結局何も進まずにここまで来た。呪いの始まりがこの地にあるのならば、解除の鍵もここに眠っているかもしれない。しかし、フォスの言う《黒き禍殃》が撒いた呪いを、そう簡単に解除できるのだろうか。 「そのお顔が、証拠になるかと。それは私の施した処置ですが、あくまで応急的なもの。もう少し時間と魔力をかければ、解除できる望みはあります」 フォスの視線は、レネの右目を見つめていた。元の色に戻った右目は、魔力を視ることもない。取り戻したかった視界を、今こうして手に入れている。確かにこれは、フォスの能力を示す何よりの証拠だ。 「今夜、機会をください。あなた方がこの地まで来た決意と覚悟を、無駄にはしたくないのです」 胸に手を当て、フォスは凛とした声を張った。その瞳に迷いは感じられなかった。 信じてみよう。この女性が背負っているものに、賭けてみよう。 「……わかった」 高鳴る鼓動を抑えて、レネは深く、頷いた。 *****2-3***** フォスとの会話を終えたときには、もう日が傾いていた。大型の魔物と戦闘した時も夕刻だったが、あれから丸一日も経過していたことになる。 洗濯を終えて乾ききっていた衣服に袖を通し、レネはモルテと共に外へ出た。術の準備をするフォスの邪魔になりたくなかったのと、リヴァーディア国内のほぼ全域で食料になる動物が採れると教えてもらったからだ。剣に損傷がないことを確認し、左腰に吊った鞘へ納める。弓を手に持ったモルテがこちらを見ていた。 「もう歩いて大丈夫なの?」 「ああ。頭痛ももうない。これ以上寝てたら体が鈍る」 川の方向へ足を進めながら、レネはモルテに話しかける。 「仮に、俺の呪いが今晩ここで解けたとして、モルテはどうするんだ?」 「もう少しこの国に残らなきゃいけないね。初めて会った時に言ったけど、僕はこの国の魔法と希少鉱石に興味があるからここにいるんだ」 自分の左耳で揺れる耳飾りに、レネは意識が向く。 思えばこの耳飾りがリヴァーディアへ向かうきっかけだった。モルテが話すに、この国には魔術の触媒として有用な希少鉱石――オウルムが眠っているらしい。この国を覆う魔法障壁も、モルテにとってはさぞかし魅力的な対象に見えているのだろう。 「レネこそ、呪いが解けたらどうすんのさ。どこかに落ち着くの?」 「そうだな……フォスへの恩返しもしたいし、リヴァーディアの生き残りのために協力するのも悪くはないと思っている。それに、魔物が跋扈しているところにお前ひとりだけじゃ、危なっかしくて気が気じゃないからな」 「もう転ぶなんてへまはしないよ」 モルテは視線を外してむくれた。そういった仕草は実に子供らしくて、レネは微笑する。 「どうだか」 「でも……そっか」 相棒はそう呟き、少しの間言葉を止めた。 「レネともう少し一緒にいられるなら、心強いかな」 夕焼け色の目を細め、モルテは微笑んでいた。こちらを見てはいなかったが、その眼差しは安堵と安らぎを見出すような、穏やかなものであった。 モルテはかなりの自信家だ。笑顔と言えば、威勢を張ったような高慢な笑みの記憶が強い。初めて見る顔に、レネは驚きの感情をおぼえた。 ――こいつはこんなに優しく笑えたのか。 「なあに? そんなにじろじろ見ないでよ」 モルテと視線がぶつかった。すまん、と一言詫びてレネは目を逸らす。こちらに非は全くないが、いつも通りのモルテが持つ強い眼差しにたじろいでしまった。 「話を戻すけどさ。僕が訊きたいのは、レネが何をやりたいかだよ。この国に残るのは使命感とかであって、レネがやりたいことじゃないでしょ。無いの? そういうの」 「やりたいこと……」 無いわけではなかった。しかし、話していなかった。 今までそういう会話をする機会がなかったし、自ら進んで話すような内容でもなかったからだ。呪いを解くことがまず大前提であって、それが旅の目的であった。あくまでモルテは、旅の同行者。そこまで話す必要はないと思っていた。 ――話すべきだろうか。 レネは逡巡する。決して憚られるようなことではないのだが、モルテに話して理解してもらえるだろうか。 喉まで出かかる。 ――俺の、やりたいことは。 「……無くはないが、話すことじゃないだろう」 言葉を押し殺した。人が人として生きる上で当たり前のこと。それ故に、『そんなこと?』とモルテに言われるのが、怖かった。 呪いが解けたら。呪いが解けて、普通の人間に戻ったら。 七歳のあの日に喪った、両親と共に過ごした温かい家庭。あの日々はもう戻らないが、それでも、誰かを。 ――誰かを愛して、愛されて、共に生きることができるのなら。 *****2-4***** この国の夜の訪れは早い。大森林の梢に太陽の光は遮られ、一瞬の夕日が過ぎるとあっという間に帳が下りる。月と星の光だけが照らす屋根の下、レネは部屋の中央に座っていた。床に敷いた敷物の上に胡坐をかいている。家具は別室に片付けられており、そのせいか昼間よりも部屋が広く感じた。壁掛けの蝋燭の光が灯る。赤くささやかに、夜の闇が揺らめいた。 フォスはレネの正面に立ち、錫杖を両手で握りしめた。彼女の決心とわずかな緊張を含んだ視線が、こちらに向けられている。モルテは寝室で読書をしているはずだ。夜の冷えた空気が、二人きりの静かな空間でぴんと張りつめた。 術の前に、あらかじめ上半身の衣服を脱いでおくようにフォスから指示されていた。紋様を確認するためだろう。応急処置で心なしか範囲は狭くなっているものの、濃い紫の紋様は変わらずに刻まれている。 「思ったよりも深い……。けれど範囲はまだ広くありません」 紋様は右腕から始まり右胸を経由し、右脚まで下る。左半身はなんともない。これは《広くない》と形容できる状態であることに、少しだけ安心した。 フォスは、小さい木製の杯を持ってきてレネに手渡した。 「これを」 透明な液体が入っている。 「痛み止めです。多少眠くなります。術は苦痛を伴いますから」 レネは杯を受け取ると、ぐっと飲みほした。舌と喉へ抜けるような清涼感が、いかにも薬らしい。後からほんのりと苦みが広がる。 「横になって」 言われたとおりに床へ横たわった。後頭部で結んでいる髪が邪魔で、一度起き上がって紐をほどく。腰よりも長い髪を整えて、もう一度仰向けに寝た。 敷物のちくちくとした感触が頬をくすぐる。薄暗い天井しか見えない視界の端から、フォスが現れた。 「安心してください。次に目が覚めたときには、きっと昔のあなたに戻っていますから」 囁くように声をかけて、フォスの右手がレネの頬を撫ぜた。手袋越しだったが、彼女の体温が伝わってくる。恥ずかしくなって思わず目をそらした。 フォスはレネの傍らで膝をつき、徐(おもむろ)に目を閉じる。ほどなくして、詠唱が始まった。彼女のやわらかで静かな声を聞くうちに、だんだんと音の輪郭がぼやけてきた。 子守唄のような声を聞きながら、物思いに耽る。誰かに優しく撫でてもらうなんて、何年ぶりだったろうか。小さいころ、母に頭を撫でてもらいながら寝るまでそばにいてもらった記憶がよみがえった。 長い一人旅の過程で、しまい込んでいた。懐かしくて温かい時間。こんな他愛もなくて、けれど愛おしい日々が、ずっと欲しかった。だから、こうしてここまで来たんだ。次に目が覚めたら、また、あんな日々を過ごせるんだろうか―― レネは重い瞼に抵抗することなく、ゆっくりと意識を横たえた。 *****2-5***** 微睡みの中、ちくりと痛みが走った。浅く、しかし焼けつくような熱さが右胸を刺す。気力を振り絞って瞼を上げると、きらりと光る刃が見えた。小さい切っ先の先端は、赤く濡れている。 「なに、して……」 声を出すのもやっとだった。強烈な眠気でよくわからないが、確かにこの痛みは夢ではない。刃の根元を視線でたどり、柄を見る。白い手袋をはめた女性の手によって握られていた。まぎれもない、フォスの手だ。 「大丈夫。毒を取り出しています。安心して眠って?」 これも術なのか―― 鈍麻した思考はそう結論付けようとするが、理性と経験がそれを否定した。 ――違う。これは、何かがおかしい。見るんだ、フォスの顔を。 徐に瞬きをして、確りと彼女の顔を見る。その相貌は、歪んでいた。口角は猟奇的なほどに吊り上がり、目は恍惚で見開いている。昼間の時とは別人のような、邪な笑みが現れていた。レネは確信する。 ――呪いを解くためなんかじゃない。これは……! 声を出そうとしたと同時に、鋭い風切り音が横切った。フォスの顔面すれすれをかすめ、横の壁に突き刺さったそれは、一本の矢だった。 「そこまでだ」 聞きなれた、精悍な声がレネの耳に届く。部屋の入り口から、モルテが弓矢を番えてフォスを狙っていた。 「怪しいと思ってたんだ。部外者の僕たちを、何の疑問にも思わず助けるし。術をかけるのに、わざわざ僕を別室に追いやる理由もわからなかった」 「待って、違うんです! 私(わたくし)は本当に呪いを……」 「じゃあ、さっき僕に差し出した飲み物は何? 外の草に一滴垂らしただけで、見る見るうちに枯れていったよ」 「そんな、はずは……」 フォスの声を遮るように、もう一本、矢が飛んできた。彼女の胸元をかすめて、また壁に突き刺さる。 「君もレネと同じなんでしょ? どうやって紋様と瞳を隠してるか知らないけど、 本当の目的は何?」 レネは耳を疑った。飲み物で、草木が枯れた? フォスが、自分と同じ? 呪われていた右目は、元に戻っている。眼帯をつけていないが、今のレネに魔力は視えない。モルテの話すことが事実であるとするならば、フォスは何らかの能力を行使して目を塞ぎ、彼女自身の魔力を視えないようにしたことになる。 彼女はモルテを見て怯えていた。身体は小刻みに震え、錫杖を握る右手は力なく床に置かれている。 フォスは襟ぐりに手を入れて、胸元から小さな瓶を取り出した。ペンダントヘッドのように、細い鎖につながれたそれの中身は殆ど空であったが、ごくわずかに液体が入っている。あまりにも毒々しい、赤紫の色を呈していた。 「……あなた方も、私を否定するのね……」 「その色、魔物の体液かな。レネのを絞り出そうとしたんでしょ」 「どうして皆、私のことを分かってくれないの……。こんなにも、呪いを解こうと努力して、勉強して、皆を戻そうとしているのに……」 会話がかみ合わない。モルテの警告など耳に入っていないようだ。フォスは延々と一人で呟いている。 彼女の首から提げられている赤紫の液体。たしかに、大型の魔物が流した体液と色調がよく似ていた。歴史をたどれば、美や精力を得るために他者の血液を取り入れるという話はよく耳にする。モルテの仮説とフォスの態度に、矛盾は感じられなかった。だとすると、今までのことは全部自分の体液を回収するための嘘だったということになる。先ほど飲まされた液体も、単なる睡眠薬―― レネは左手の指を伸ばし、そのまま口の中につっ込んだ。毒を吐き出すのであれば、早い方がいい。可能な限り奥まで指を入れ、刺激による反射に任せて胃の中の薬を吐き出した。呼吸を整えて口を拭う。気のせいかもしれないが、酩酊に似た眠気が少し治まった気がした。 レネの嘔吐を止める様子もなく、フォスはまだ喋っていた。錫杖を床に落とし、空いた両手で自らの頭をぐしゃぐしゃに掻きまわす。 「私のことなんて、皆許してくれないんだわ……そうよ、もともと許される権利なんて、私には、わたくしにはなかったの!」 吐き捨てるように、フォスの怒号が響く。昼間の静かな話し声からは想像もできないような慟哭だった。荒げた息をそのまま深く吸い、彼女は天を仰いだ。 もはや視線は虚ろだった。明らかにレネとモルテのことは意識から外れ、合わない焦点を天井に向けている。口元は笑みの形に開いているが、目元は悲哀と憔悴に染まっていた。彼女は、そのまま、笑いだした。 声量は次第に大きくなっていった。横に開いた口は、より開かれていく。そのうちに口角はめりめりと彼女の頬を割き、顔部分が横にばっくりと割れた。 もはや口と形容できなくなった裂け目の中から、白い何かが頭をのぞかせる。赤紫の液体に濡れながら、彼女の体内からずるずると這いだしてきた。空っぽになった身体は袋状にしなびて折りたたまれ、床に伏せる。這いだした白い何かは飛び上がり、頭上でゆっくりと横に展開されていく。 ここで、レネとモルテはようやくそれが何であるかを認識した。それは、巨大な翼だった。翼の中から現れた金属製のリングが天井を破壊し、中の異形がレネとモルテの上に顕現した。 それはあまりにも神々しく、巨大で、おぞましい。無数の目が四方八方をぎょろぎょろと見渡し、翼の中には白磁の像のような分厚い仮面が鎮座している。先ほどまでの女性の面影は殆どない。彼女はまさしく異形だった。 もはや家としての機能を失った家の頭上で、フォスだった魔物は天に浮いていた。目の前の光景がにわかには信じられず、レネとモルテは絶句しながら見上げるほかなかった。 *****2-6***** 「ああ……イリオス」 中央の仮面の口元が動く。そこから発せられる声は、紛れもないフォスの声だった。安堵と悲哀が混ざったような、静かな声が響く。 「イードル隊長はどこ? みんな、みんないなくなってしまったの……」 ――イリオス、イードル。 レネは眉をひそめる。あまりにも聞き覚えのある名前だった。レネにとっては懐かしくて、途方もなく遠くなってしまった人たちの名前だ。それを、何故フォスが呼ぶのだろうか。 「どうして、その名前を……」 「知り合い?」 隣のモルテの問いに、レネは答える。 「俺の両親の名前だ」 レネはリヴァーディア出身ではない。そもそもモルテに教えられるまで、この単語が地名だという事すら知らなかった。なのに何故、リヴァーディア人であるフォスとレネの両親が知り合いなのか? フォスは空中に浮かんだまま、こちらのやりとりなど気にせず話し続ける。 「ねえイリオス。答えて。どうしてみんないないの?」 「俺はイリオスじゃない! イリオスもイードルも、何年も前に死んだんだ」 「……死ん、だ……?」 フォスの声がわなわなと震える。 「うそ……うそよ、戻すって決めたの…… みんなをもとに戻すって、イスキオスやフォティアと、アネモスとも誓ったのに……」 「また変な名前が出てきたよ。知ってる?」 「いや……初耳だ」 「もどらない 死んだら、もうもどらない……」 フォスの声はさらに落胆の感情に震える。仮面を中心に伸びていた翼は次第に折りたたまれ、フォスが嘆いているのが見て取れた。その次の瞬間、異形の身体を包むように淡い光が浮かび上がり、数秒を経て段々と強さを増していった。 何かを察知したモルテが、息を呑んだ。上半身だけ起こしていたレネの身体を押し倒し、咄嗟に叫ぶ。 「伏せて!」 霹靂と見まがうような閃光が、頭上から降り注ぐ。フォスから発せられた無数の光は、槍となって家や周囲の木々を突き刺した。破壊されすでに役目を終えた天井に当たり、木材を焦がし、燃えた破片がこちらへ落ちてくる。 『障壁(アーミティウス)!』 モルテの咄嗟の詠唱は間に合っていたようだ。二人の頭上に水の膜がはられ、フォスの攻撃を防ぐ。光の槍は水に吸収され、わずかな水蒸気と共に消えた。 「あいつ、僕たちを始末する気だよ。動ける?」 モルテの防御魔法に守られながら、レネは思案した。正直なところ、まだ頭はふらつくうえに脚に力が入らない。疑いもなくフォスの説明を鵜呑みにして、薬を飲んだ自分を恨んだ。しかし、どれだけ後悔してもこの事態は覆らない。 「動けないが、何とかするしかないな。モルテ、弓を」 動けなくても弓矢は打てるだろう。モルテから弓と矢筒を借り、レネは試すように軽く番えた。腕は力が入りそうだ。対象もあれだけ大きいのだから、少しくらい照準がぶれても当たる可能性は十分にある。 しかし。否定の言葉が脳裏をよぎる。フォスと出会う前に戦闘した大型の魔物とはわけが違う。今のフォスに理性は感じられないが、知性はある。魔法を行使する未知の異形に、果たして勝つことなどできるのだろうか。 「目玉を狙う。……モルテ、防御を頼めるか?」 「誰に向かって言ってるのさ」 自信に満ちた相棒の声が、返ってきた。普段は鬱陶しいとすら思うその声が、とても頼もしく思えた。 「……任せるぞ」 *****2-7***** 矢じりを持つ右手に、ぐっと力をこめる。右肘を奥へと引き絞り、フォスのリングに浮かぶ目の一つへと狙いを定めた。彼女は宙に浮かんだまま、殆ど静止している。高度もさほど高くない。 ――いける。 瞬きを終えた瞬間、指を離す。放たれた矢はまっすぐにフォスへと飛び、巨大な瞳孔へ突き刺さった。 「ギャアアアアアア!」 悲鳴が上から降ってきた。次の瞬間、先ほどと同じ光の槍がレネ達めがけて落下する。 「同じ攻撃が効くわけないでしょ! 《障壁》!」 頭上へ掲げた小さい掌の直上に、水の層が再び現れた。フォスの槍は再び吸い込まれる。攻撃が無力化されたと同時、モルテは魔法を解除した。防壁を張った状態では、こちらの矢がフォスに届かない。 モルテは魔導書を小脇に抱えて民家の屋根を上り、仁王立ちの状態でフォスに話しかけた。 「君に訊きたいことがある! 皆を戻すってどういう意味だ!」 「戻さなきゃいけないの…… わたくしがやらないと…… なのにいなくなってしまった……」 まるで聞く耳を持たず、フォスはぶつぶつと呟き続けている。こちらの声は、彼女には届いていないようだ。 その間にもレネは次の矢を番え、放った。一本目の矢が刺さった目と反対側の目に当たり、赤紫色の体液と涙が同時に飛び散る。 「いたい! お願いやめて……」 「僕たちを散々傷つけておいて、今更やめて? 随分と都合のいい話だね」 モルテは魔導書を開き、詠唱を始めた。先ほどの障壁の詠唱とは違う頁を読み上げる。 『投石(パルヴム・レモラ)!』 モルテの眼前の空間が一瞬揺らぎ、いくつもの大きな石が姿を現す。それらは一直線にフォスめがけて飛び放ち、中央の白磁の仮面へ次々に激突していった。 仮面に無数のヒビが入り、欠片が剥がれ落ちていく。モルテからでは見えないが、地面に膝をついていたレネは気が付いた。仮面の奥に、何かが隠れている。ひび割れの下からわずかに、白地に黒いまだら模様が見えて――その正体に、レネは気づいた。 番えた矢をいったん外し、屋根の上の相棒に向かって叫ぶ。 「モルテ! その魔法を繰り返すんだ!」 「え!? これ牽制用なんだけど!」 「構わない! 奴の弱点は目じゃない、仮面の下だ!」 仮面の下から覗いたもの。それは、黒く変色した横顔だった。見覚えのある顔だ。長い髪をなびかせ、悲嘆の表情で涙を流す。 ――仮面の下に、先ほどの女性の姿のフォスがいる。あれが彼女の本体だ。 モルテの前から出現した石が、フォスの仮面を砕いていく。鶏卵の殻にひびを入れていくように、乾いた音を立てて脆い仮面が砕かれていく。 やがて仮面のすべてが破片と化し、中のフォスが完全に姿を現した。その瞬間を、レネは見逃さなかった。 青緑の双眸がフォスを捉える。固く引き絞った矢じりを離し、 矢は、彼女の左胸を突き刺した。 *** ――わたくしを、ゆるして。 異形の天使は、断末魔をあげて力なく墜落していく。 地面を背に落ちる彼女の視界は、天を仰いでいた。遠ざかる星空。あざ笑うかのように浮かぶ月。視界が赤紫色に濡れ、ぼやけて滲んでいく。 痛みと後悔が心を貫く。フォスの意識は沈み、追憶の中へ深く深く、落ちていく。 *****2-8***** フォス。《光》を意味する言葉を名に背負う彼女は、確かにリヴァーディアの光だった。光で、あろうとした。 *** その日も、フォスは治療にあたっていた。 アネモスの脚に治癒魔法をかける日々が、もうどれくらい続いたのだろうか。毎日決まった時間に魔法をかけ、彼の動かない脚に変化がないかを確認する。それはもう長い事、フォスとアネモスの日課になっていた。 淡い光が、アネモスの脚を包む。車輪付きの椅子に座っている彼は、いつしか治療の時に読書をするようになっていた。治療を開始したばかりの頃は興味津々にフォスの魔法を眺めていたが、もうそれも見飽きてしまったらしい。 「はい、今日はこれで終わりよ。具合はどうかしら?」 「……変わりありません」 手元の文字から目を離し、一瞬だけフォスの方を見て、アネモスは答えた。変声期を迎えていない彼の高い声は、最初はいたいけに喜びと感謝の色を帯びていた。しかし、今となってはその色はもう感じられない。 「ありがとうございました」 本を畳み、アネモスは一礼した。 違うでしょう。フォスは心の中で、彼の挨拶を否定する。 ――本当は、私に感謝なんてしていないのだわ。 感謝されるほどのことなんて、できていない。アネモスの無感情な声を聞くたび、フォス自身の内なる声が、責めるのだった。 アネモスが座る、車輪付きの椅子。それを押すのは、彼の兄の役目だ。フォスは立ち上がり、別室で控えるアネモスの兄に今日の治療終了を報告した。 イスキオス。名前は弟と似ていないが、顔立ちはよく似ている。特に、眼差しとストレートに揺れる金髪は兄弟でよく似ていた。 「ごめんなさい。今日もあまり変わらないわ」 「いいんだ、フォス。いつもありがとう」 アネモスは、何か失礼な言葉を向けていなかったかい。イスキオスはそう続けた。フォスは首を振って否定する。失礼などあるものか。失礼なのは、アネモスに成果を上げられていない、自分なのだから。 イスキオスと挨拶をかわし、フォスは廊下へ出た。次の仕事が待っている。 自分の足音に混じって、イスキオスとアネモスの会話が聞こえた。 ――さあ行こう、アネモス。今日は何が食べたい?  ――兄さん、今日はね…… *****2-9***** フォスの朝は早い。王城の窓から差し込む日の出とともに目が覚めて、早朝から自室で読書と勉強に励む。最近はもっと早くに起きて、より勉強に時間を割くようにしていた。 フォスの治癒魔法に頼る者は多い。病を抱えている者、怪我を負った者。障壁は動物には無効ゆえに、外部から侵入した害獣と戦闘し負傷する者は絶えない。それに、最近は鉱石の採掘・精練作業に従事する者の間で病にかかるものが増えている。肺病にかかるものは昔から一定数いたが、最近は皮膚病の患者が増えている。中には、麻痺や幻覚に苦しむ者も。多種多様の症状に対してどうやったら対策できるのか、フォスの悩みの種は尽きなかった。 勉強しなければ。知識を身に着ければ、それだけ救われる人が多くなる―― 朝日が机の上に差し込んできた。そろそろ朝食の時間だろう。結っていた髪を下ろし、整えるために、フォスは鏡の前に立った。 「なに、これ……」 目が真っ赤だった。充血かと思ったが、よく見ると違う。白目の部分は何ともなく、瞳の部分だけが綺麗に赤い。両目とも薄い水色であるはずが、どちらも深紅に染まっていた。上下左右を見回して、室内も見渡す。痛みはない。視野も大丈夫。それがさらに不気味だった。しかし、自分の身体をみて、気が付いた。 赤と紫に混じった、黒。もやのような、霞のような、そんな不可思議な煙を、自分が纏っていた。さらに、服を着替える時に気が付いた。身体に、謎の紋様がある。 「どうして…… これ、一体……?」 ただの病では説明がつかない。どの書物にも見覚えがない奇妙な事象が、一度にいくつも発生している。何が、いったい何が起きている? 心当たりがあるとしたら、呪術や黒魔術の類だった。自分はそういった類の魔法に詳しくない。アネモスはどうだろうか? 彼は、攻撃魔法を扱うのだ。黒魔術に多少の知見があるかもしれない。 フォスは自室をでて、城の廊下へ躍り出た。今は早朝だ。なるべく第三者と接触せず、急いで彼に会いたかった。 一歩、一歩ごとに、不安と焦りが募る。これは治るのか? それとも。気持ちだけが前に行くが、どんどんと身体が重くなっていくのを感じた。暑い。早朝なら外気はひんやりと涼しい季節なのに、だんだん体内に熱がこもっていく。 脚がもつれた。バランスを崩し、フォスの華奢な身体は地面に崩れる。 「どうして……」 起き上がるだけの力を振り絞ってみるが、鉛のような上半身を起こすことができない。異様な倦怠感が圧し掛かり、熱に浮かされた意識はどろどろと沈んでいった。 *** どうやらそのまま通路で寝ていたらしい。相変わらず身体は燃えるような熱さだったが、気力を振り絞ってなんとか身を起こす。 喧騒が聞こえていた。より正確に表現するならば、幾重にも折り重なった悲鳴があちこちで響いている。 「何……?」 敵襲か? 念のため周囲に警戒しながら、外へ出る。 建物の外へ続くドアをそっと開けると、焼ける匂いと共に鮮明な悲鳴が飛び込んできた。 一言で形容するなら、それは地獄だった。 本来なら、そこは花と草木に囲まれた瀟洒な庭園が広がっているのだ。その何もかもが黒く燃えて、煙と灰が舞っている。不透明な視界の隅で、蹲る人々が見えた。 ある者は身体を焼かれながら悲鳴を上げて転がり、またある者は既に黒い炭となって下火を燻らせるだけとなり、またある者は見開いた両目から涙を流しながら焼け爛れた口と喉をぱくぱくと開けている。 燃えていた。樹も人も、すべてが燃えている。 フォスは彼らの元に駆け寄った。治療しなくては。はやく魔法をかけないと、手遅れになる! 喉の火傷で呼吸困難になっている女性の元へ駆け寄った。錫杖を持っていないが、あれは魔力を増幅させるためのものだ。なくても治癒魔法の発動はできる。 「今助けます!」 手をかざそうとする。しかし、そこでようやくフォスは気が付いた。 自分の身体に、びっしりと紋様が濃く刻まれていることを。 思わず手を引っ込めて、袖をまくる。朝に見たときよりも濃く、深く、紋様が自分を包んでいる。周囲に気を取られて、忘れていた。自分のこの事象は、治ってなどいなかったのだ。 そのとき、どこかから声が聞こえた。 「化け物!」 軽い火傷を負っている男性が、こちらを見ていた。その顔は恐怖に歪み、怯えた視線が確実にこちらを捉えていた。 体中の熱が冷えるどころか、燃え上がるのを感じた。熱い。 「なによ、なによこれ……!」 「あつい」「いたい」「たすけて」 色々な声が聞こえる。誰もが自分の助けを求めている。治さなきゃ。はやく治さないと、皆が。 しかし意識は自分の熱に乱され、まとまりのない集中が散らばっていく。 熱い。頭は焦燥で冷え切っているのに、身体は燃えるように熱がどんどんと高まっていく。 ――どうしよう。なにも、なにも、できない。 ――自分の力が及ばないから。 ――何もかもが崩れてしまった。 ――皆を、守れなかった。 ――どうか、どうか許して。 「許して……」 レネとモルテが見つめる中、地面に墜落したフォスは繰り返し呟いていた。 ――許して。 フォスが人間でいられた最期の記憶。 何もできなかった、無力感に絶望した、最後の記憶の中で、フォスの意識は途絶えた。 *****2-10***** 睡眠薬を吐き出してから、だいぶ時間が経過していた。ふらついていた足はしっかりと身体を支え、感覚も平常時に戻りつつあった。今なら剣を使うこともできるだろう。徐に鞘から引き抜きつつも、レネは逡巡していた。 フォスもまた、呪われていた。最初に出会った赤い鬣(たてがみ)の魔物と同じ、人としての生を奪われた魔物だったのだ。 彼女は消え入りそうな声で、「許して」と繰り返している。何を許してほしいのか、窺い知ることはできそうもない。もはやこの場に、フォスへ許しを与えることのできる人物はいなかった。 ならばせめて、人としての心が残っているうちに、終わらせてやるべきなのだろうか。この剣でとどめを刺すべきか、それともこのまま最期を見届けるべきか。 モルテはレネの隣に降りてきていた。レネが柄を握り迷っていると、不意にフォスの身体が黒い炎に包まれた。二人は反射的に下がり距離を取る。火炎は瞬く間にレネの身長を超すほど勢いを増した。 時間にして数秒だった。燃え盛った炎はあっという間に鎮火し、異形の魔物は灰と共に消え去った。燻った香りと漂う灰に、レネとモルテは軽くむせる。 地面に取り残された遺灰の中から、黒く焼け爛れた身体が見えた。女性の遺体だった。かろうじて白い服と長い金髪が確認できる。それは異形に姿を変える前の、人間体のフォスだった。よく見ると、レネと同じ紋様が全身に広がっている。目を閉じており瞳の色は分からないが、おそらく両目とも赤いのだろう。 かける言葉が見つからず、レネは遺体を呆然と見つめていた。 ――これが、呪いの末路なのか? 黒い炎に焼かれ、人としての身体すら奪われて、異形に変わり果てることを強いられると? いずれ、自分もこうなるのか? 鬣の魔物やフォスのように、異形の姿に変わり果て、周囲に殺意を振りまくだけの存在に成り果てるのか? 「……レネ」 相棒の声に、レネは振り返る。 「目が」 声はわずかに震えていた。モルテの瞳はまっすぐにこちらの瞳を見つめている。自分の顔を映せる物がないか思案し、右手に持っている剣の刃を利用した。 反射する自らの顔を見る。そして、愕然とした。 レネの右目は、深紅の色彩に戻っていた。加えて、紋様はフォスと出会う前よりも更に広がっていた。 *****3-1***** 明け方に空を覆っていた雲は過ぎ去り、雨露に濡れた草を木漏れ日が照らす。梢から落ちる雨垂れが、不意にレネとモルテの頭上へと滴った。 フォスとの戦闘から、一夜が過ぎた。あの晩、睡眠薬が完全に抜けてからレネは身支度を整え、無残な姿に変わり果てたフォスの遺体を埋葬した。モルテは遺体など放っておけばいいと反対していたが、一人黙々と地面に穴を掘るレネの姿を見て渋々手伝った。 作業が完全に終わった頃には周囲が明るくなっていた。一睡もせずに疲労が蓄積していたが、瓦礫の山と化していた民家で休息する気にもなれない。二人は、行く当てもなく川の上流を目指していた。 道中、いくつかの家に遭遇した。家というよりは、小屋と言った方が近いだろう。どれにも人が住んでいた形跡はあるものの、これまで同様にやはり中は無人だった。 家を発見しては足を止め、休憩を兼ねて室内を探索する。生存者に出会うことができれば一番いいのだが、せめて日記帳などがあればリヴァーディアの呪いと生存者に関する情報の一つでも見つかるかもしれない。淡い希望を抱いていたが、そこまで上手く事は運ばなかった。 そうして何軒目か、数もあやふやになってきたころ。やはり家より小屋と呼ぶにふさわしいその室内でモルテが本を漁っている傍ら、レネは外を眺めていた。 右目の視え方が、戻っている。 リヴァーディアで最初に戦闘した、赤い鬣の魔物。あれが纏っていた黒い魔力を思い出す。戦闘中でしっかりと視る余裕はなかったが、あの黒い魔力は鬣の魔物とその周囲を取り囲んでいるように見えた。それは敵の魔力が強大ゆえに、あたりを霧のように覆っているものだと、レネは判断していた。 しかし、今右目で視ている光景は違う。周囲に魔物などいないのに、今も視界全体が霧のように黒く覆われている。あれは魔物の魔力だけでなく、この国全体が纏っている波動らしい。魔物の接近をいち早く察知できるかと期待していたのだが、これでは大して役に立ちそうもない。 レネは小さくため息をつき、眼帯を再び装着した。 前日の夕刻までは、自分のこの呪いにやっと別れを告げることができると思っていた。しかし、一晩経って呪いは解けるどころかかえって進行してしまっている。右頬を覆っていた紋様はわずかに範囲を広げ、右耳と顎にまで浸食していた。今は服で隠されているが、右腕と右胸も範囲が広がっている。 ――呪いが解けるなんて話、嘘だったのか。 フォスの真意を明白にすることは叶わなかった。魔物化する直前の彼女はまさに錯乱状態で、「皆を元に戻す」という彼女の主張と目的がどこまで本当だったのか最早分からない。フォスはレネの血液を欲していた。あれは力を得るためだったのか?  探索を終えたモルテが、考え込むレネの顔を見て、尋ねる。 「レネ、フォスの話どこまで信じる?」 「……」 返答に躊躇した。 彼女によれば、この国は侵略者によって呪いを撒かれ、民が魔物に変わり果てたという。彼女は自分の使命について、「苦しんでいる人たちを、魔物化の運命から解放すること」だと言っていた。その話をどこまで信じればいいのか。そして、これからどこへ向かえばいいのか。レネには分からなかった。 「明確な根拠には乏しいんだが」と前置きし、レネはつぶやく。 「ほぼ全部、本当のことだったのかもしれない……そう思うんだ」 「そうかな? あいつ、僕たちのこと騙してたんだよ?」 「結果的にはな。だが、最初に侵略のことを教えてくれた時の目……あれは本気の目に見えたんだ」 生存者の救済を誓う彼女の眼差しは、人を騙すようなものに見えなかった。もしかしたら無意識に、レネ自身がそうだと思っていたいのかもしれないが。 「まあ、生き残りがいてもいなくても……僕たちのやることは変わりないよ。レネはその呪いの解除方法を探す。僕はリヴァーディアに眠る、オウルムを探す」 「ひどいな、協力してくれないのか」 冗談まじりにレネは笑った。魔法への探求心の強さは、相変わらずだ。 「不本意だけど、協力せざるを得ないみたいだ。ようやく当たりに出会えたよ」 やはり冗談まじりに返しながら、モルテは古びた本を開いて差し出した。 文面に目を通す。日記のようだ。読む傍ら、モルテが補足する。 「ここから北に王城があるんだって。この書き手は鉱石の採掘員だったみたい。招集のくだりが、後ろの日付に書かれてたよ」 日記帳をパラパラとめくる。斜め読みだが、確かに採掘や召集のことが書かれていた。 そして、あるページで目を止める。 「こいつ……この家で療養していたのか」 「採掘時の粉塵を吸引して、肺病にかかる例って少なくないけどね。作業環境が劣悪だとこうなるんだけど、この国もどうやらそうだったみたい」 長年にわたって苦しめられた咳。咳が招く不眠と、体力の消耗。更に手指の痺れ。書き手は王城周囲の断崖で鉱石採掘に従事していたが、先の症状に苦しめられ、市街地から離れてこの家で療養していたらしい。 しかし症状はあまり快方に向かわなかった。生計に苦しみ、不本意ながら復職の要請に応じたようだ。 「復職の条件として、王城の治癒師による治療を受けさせることを約束……か」 「フォス、《治癒師》を名乗ってたよね。この日記と同一人物かな」 モルテの問いに答えず、更に情報がないかと後続のページをめくっていた。しかし数枚めくったところで、白紙が続いている。それ以降の記述はなかった。 日記帳を閉じる。 治癒師がフォスと同一人物かどうかは分からない。が、同じく治癒師であるフォスが呪いの解除へ取り組んでいたことは、おそらく事実だ。そう思いたかった。 仮に日記の治癒師とフォスが同一人物でなかったとしても、王城であれば何らかの情報が記されている可能性は高い。少なくとも、ぽつりぽつりと現れた民家の内部を一軒一軒あさるよりかは、質の高い情報が得られるだろう。 「……確かめに行けばいい。目下の目的地ができたな」 北の王城。 鉱石と、治癒師。一本の細い蜘蛛糸のような情報だが、それでも今の二人には救済の道筋に思えた。 *****3-2***** 地図にない王国、リヴァーディア。 秘匿のヴェールに覆われた文化や風習に全く興味がない、と言えば嘘になる。他人の生活を覗き見するような仄かな後ろめたさはあるが、日記に書かれた文章の端々から習俗を読み解いていく作業は純粋に面白い。 情報が欲しかった。まだ自分たちはリヴァーディアについて、何も知らない。 焚き火から立ち上る揺らめきを明かりにして、レネは日記帳を読み返していた。ページをめくり、時には前に戻りながら何度も日付を反復する。 書き手は一人暮らしの男性だった。闘病の記録が多かったが、日記の最初の方は他愛もないことが書かれている。今日はこの食材を手に入れた、今日は友人が見舞いに来た、今日は転んで足を擦りむいた…… 呪いのことなど、何一つ書かれていない。まだこの時は、リヴァーディアは平和だったのだろう。 文章から視線を外し、目の前の焚き火を一瞥する。夕食の準備のためにお湯を沸かしているが、沸騰までにはまだ時間がかかりそうだ。 家屋内にも厨はあった。しかし一部が倒壊しており、そのまま室内で火をつけるのは危険だった。それに―― 「咳は止まったか? モルテ」 「おかげさまで。代わりに眠気と戦ってるよ」 欠伸の後、モルテは徐に寝転がる。睡魔への敗北は目前のようだ。 二人の疲労は限界だった。 目標ができたことで無意識に安心したのか、レネもモルテも日記帳を見つけた家から動く気になれなかった。何しろ、前日は一睡もせずに戦闘と埋葬に専念したのだ。疲れていないわけがない。 日没を待たず早めに休息をとることにしたのだが、埃まみれの室内に長時間いたせいか、モルテの咳が止まらなくなった。 屋外へ避難させて休ませる。その間に、自分は寝室の埃を払った。厨は使えず、このまま外で食事も済ませたほうがモルテの肺にも良いだろうと判断し、今に至る。 雨がぶり返す予兆はない。レネは頭上を見上げ、少し太さを増した三日月に添えられた星空を眺める。 森林に覆われたリヴァーディアの空は、決して広いとは言えない。しかし街明かりの光に邪魔されない暗闇の中、梢の隙間に敷き詰められた星々は、かけがえのない絶景だ。 寝転がった姿勢のまま、モルテがつぶやく。 「星、綺麗だね」 リヴァーディアの地に足を踏み入れてから、戦闘続きだった。レネは相棒の言葉に静かにうなずき、二人で穏やかな夜を過ごせることの有難さを噛みしめる。 「そういえばさ。その日記、どうして何回も読んでるの?」 「読み返したら、何か気づけることがあるかもしれないだろう」 資料を読み返すのは当然のことだ。逆に、なぜそんな質問をするのか理解できない。 「……ああそっか、普通の人はそうなのか」 一瞬の間が開く。その間にモルテは何かを理解したようだ。寝ころんだ姿勢から起き上がり、勝手に一人で頷いている。 「レネが興味ありそうなところだと、十二ページ目の記述とか。茸を見間違えて毒にあたって、三日間お腹下してるでしょ」 レネはページをめくって確認した。たしかにその記述は覚えがある。しかし、これは紙と革を綴じただけの簡素な帳面で、ページ数など書かれていない。数えながらめくると、件の記述は確かに十二枚目にあった。 「僕としては、母親の急逝で大樹へ埋葬に行った下りが興味深いけどね。二十五ページ目の上から四行目」 正しく、二十五ページ目。指摘通り四行目の途中からその文章が現れた。 日記帳はモルテから受け取ってから、今この瞬間までずっとレネが持っている。モルテは一度しか読む機会が無かったはずなのに、まるで今もその手の中にあるようだ。 「お前、記憶力どうなってるんだ……?」 「忘れたくても忘れられないんだよ。何なら前に街で僕とレネが喧嘩したときの台詞、一字一句そのまま再現してあげようか?」 にい、と悪戯っぽく笑っている。 レネは目を丸くした。知識としてそういった特技をもつ人間がいるとは聞いていたが、まさか本当に遭遇するとは思わなかった。 「忘れられない相手に、あまり話す気になれないかもしれないけどさ」 得意げな笑顔が消える。モルテにしては珍しく少し躊躇って、口を開いた。 「レネの両親のこと、詳しく教えてくれないかな。フォスが言ってたことも気になるし、僕も知っておいた方がいいと思うんだ」 心が、ちくりと刺されたような気がした。 「……ああ、そうだな」 肯定の意思を返す。しかし、まっすぐなモルテの瞳を見つめ返すことができず、思わず視線が伏せた。 いずれ訊かれるのではないかと思っていた。 魔物に変化したフォスが口走った名前――イードルと、イリオス。自分を愛して七年間育ててくれた、レネにとって最も愛おしい人たちの名前だ。そして同時に、レネがこの旅を始めるきっかけにもなった、最も辛く苦しい名前でもある。 モルテに話さずに済むのなら、そうしたかった。記憶の奥底に封印して、ぼやけた状態で眠らせたままにしておきたかった。二人を思い返し、記憶の中で生き返らせて、瞼の裏であの表情を再生するのは……今でも苦しい、ことだから。 フォスは確かに自分の両親の名前を呼んだ。互いに知り合いだったことは間違いない。それどころか、初対面であれば年下の人間にも敬語を使うフォスが親しげな口調で呼ぶほどに――とりわけイリオスとは深い関係だったと推察される。 レネの両親が、この国の侵略と呪いに直接つながるのかは分からない。しかし、今はあまりにも情報が少なすぎる。少しでも糸口を掴むため、二人のことも共有すべきだ。 それは、理解している。 「……長い話に、なるぞ」 記憶を呼び起こす。 痛みを伴う愛おしい日々の封を、丁寧に丁寧に、開けていく。 *****3-3***** 空の果てまで繋がる水平線。素足へさらさらと触れては還っていく、穏やかな波。 潮騒を子守唄代わりに聞きながら、レネは育った。家の戸を開けて真っ先に見えるのは海。そこは小さな港町のはずれだった。 漁師だった父はレネに魚の取り方や泳ぎ方を教え、たまの休日は欠かさずに遊んでくれた。母は料理を教え、町への買い出しにたびたび連れて行ってくれた。 二人とも明るくておおらかな性格で、良くも悪くも特筆することのない両親だった。レネの成長を共に見守り、喜び、あたたかく穏やかな暮らしを送っていた。 今思えば、父と母は《レネが生まれる前》の日々を、決して語ることはなかった。現在や未来のことを話すことはあれども、二人から昔話を聞いた記憶は全くない。しかし両親の過去を気に掛けるほど、当時のレネは大人ではなかった。二人が自分を愛して、育ててくれる。それだけで十分だった。 満ち足りた、家庭だった。 それがあの日、一気に崩れ去った。 七つの誕生日をすぎた夏の日だった。 いつもと変わりない一日の始まり。ベッドから起きて、挨拶をしたところで母の表情が曇ったのをよく覚えている。 鏡に映る自分の顏は、右目だけが赤くなっていた。白目の部分は何も異常が無い。目の怪我なんじゃないかと言った両親は、深刻に気にする様子はなかった。痛みや痒みが何もなかったので、自分もそのうち気にしなくなった。数日経てば元通りに治るだろうと、家族の誰しもが思っていたのだ。 数日が経過しても、一向に瞳は治らなかった。 そろそろ医者に連れて行こうか、と母が父に切り出したところで、父の顔色が突然変わった。母との会話の途中で一気に顔が青ざめ――それは何か、とてつもない絶望に気がついたような表情だった。 「……リヴァーディア」 一言だけ、父が呟いた。当時はその単語が初耳だったので、幼いレネには人名なのか病名なのか地名なのか、分からなかった。しかし、レネの母は知っていたようだ。その単語を耳にした途端、母も父と同じ絶望の表情を浮かべた。 そこからの光景を、忘れることはないだろう。 蹴飛ばすような勢いで椅子から立ち上がった父は、レネを床に押し倒し勢いよく首を絞めた。 父の太く逞しい指が、細い喉に食い込む。気道が絞まり呼吸できない。やめて、と言いたくても、細い嗚咽が口から漏れ出るだけだ。 突然のことで、信じられない。目の前で自分に覆い被さっている父は、本当の父なのか? これは間違いなんじゃないか? 目の前の父は両目を見開き、こちらを睨みつけている。それは紛れもない、殺意だった。 「怖くないよレネ、苦しいのは今だけだ。今やらないともっと苦しくなるんだ」 父は吐き出すように一気に話す。手は緩むどころか、一層強く押さえつけてくる。 「大丈夫、お父さんもお母さんもすぐに一緒のところへいくから。こうすることが正しいんだ、だからレネは安心していいんだよ」 字面こそ穏やかだが、その口調は荒く震えている。 父の言葉の意味が分からなかった。呼吸ができず意識が朦朧としていたのもあったが、何故《こうすることが正しい》のか、全く理解できない。 母に助けを求めようとした。声は出ないが、視線を母に向ける。母は床に座り込み、泣きながら「ごめんなさい」と連呼していた。父を止める様子はない。 ――誰も。誰も、助けてくれない。 視界がちらついてきた。 酸素が足りず、首を絞める父の手を払う力も出ずに、レネの意識はかすんでいく。殆ど失神していた。虚ろになったレネの目を見て、父の表情が一瞬だけ、後悔の念に揺らぐのが見えた。 本能的に、緩んだ父の手を振り払った。ゴホゴホと激しく咳き込んだ後、幼い身体は無意識に父の体を押しのけて逃げ出していた。逃げなければ、離れなければ、殺される。死んでしまう。 ふらつく足を懸命に前へ出し、玄関へ繋がるドアに手をかけた。そのときだった。 「イリオスっ!! やるんだ、外に出すな!!」 父の怒号に、後ろを振り返る。すぐそこに母が追いついていて、悲鳴と絶叫が混じった雄叫びを上げながらこちらにナイフを振りかざした。 勢いよく振り下ろされた切っ先はレネの右肩を抉った。激痛と出血で床に倒れ、赤い飛沫が自分の顔にかかる。焼けるような痛みと、両親の表情。痛くて、悲しくて、もう逃げる気力はひとかけらも残っていなかった。 父が、転がる自分の上に再度覆い被さった。先ほどの緊迫した表情ではなく、悲哀と絶望に歪んだ顔をしていたが、眼差しは本来の優しさを取り戻している。涙で濡れている父の顔を、見上げた。 ――ここで死ぬんだ。 レネは、そう確信した。何か、きっととんでもない間違いをしてしまったんだ。だから右目も治らなくって、お父さんたちは怒ってるんだ。幼い心には、そうとしか解釈できなかった。 父が両手をさしのべる。また首を絞められる、と反射的に身を強ばらせたが、大きくて暖かい両手はレネの頬を優しく包んだ。 「ごめんな、レネ」 母に追撃を命じた声とは全く違う、聞き慣れた声がした。 「その右目は、お父さんたちにもお医者さんにも……治すことはできないんだ」 「どうして……?」 「お父さんたちは間違いをしてしまったんだ。本当はそうするべきじゃないって分かってたんだ……けれど、そうしなかったら、レネはきっと生まれてくることができなかった」 間違い? お父さんたちが一体何を間違えたのか、分からない。見当もつかない。 「レネを……お母さんを、皆を、守りたかったんだ……本当なんだ、レネを殺したい訳じゃないんだ……」 父は目を伏せた。掠れるような声と涙がぽたぽた、降りかかる。 こんなに悲しそうに泣く父の顔は、初めてだった。この右目が赤くなったことは、すごく悲しいことなんだと察知した。 「ごめんな……皆を守るくらい、俺が強かったら……こんな、こんな事には……」 「イードル」 母が、父の名を呼んで肩に手を置く。母の目も涙で濡れていた。 父はゆっくり目を開き、母とレネを見る。悲しくも、優しい微笑がそこにあった。 「お父さん」 「……先に行って、待っててくれないか? お父さんたちもすぐに追いつくよ」 掌が、レネの柔らかい髪を撫でる。 父はよく頭を撫でてくれた。普段はあまり丁寧な撫で方ではなくて髪がぐしゃぐしゃになる。しかし、今日のこの撫で方はとても優しくてゆっくりとしていた。 *****3-4***** 「すぐに行くからな。……愛してる、レネ」 父はそう言い、レネの頬に口づけた。頬は右肩の傷から飛び散った血液で汚れていたが、気にする様子はなかった。 そして、今度こそレネの首を絞めようと手を伸ばした、その瞬間だった。 勢いよく、レネの顏に温かい鮮血が降りかかる。父が吐血した。咳とともに真っ赤な血液が止めどなく溢れ出し、瞬く間に目や鼻からも血が流れ出した。 母は短い悲鳴とともに身を引く。レネも母も、父の突然の変化に理解が追いつかない。 「がは、」 短い声は、喉を逆流した血液の音でゴポゴポと濁っていた。止まるどころか、泡を立てて口角より勢いを増していく。呼吸がままならず、鼾(いびき)に似た喘鳴(ぜんめい)とともに父は青白い顔を天へ向け――脱力してレネの上に倒れた。 大きい体躯がのしかかる。しかしレネも絶句して、頭が真っ白だった。押しのけることも声を出すことも、頭から消え去っていた。 「……イ、イードル! イードル!!」 父を揺さぶる母の悲鳴で、我に返る。 まだ温かい体は、ぴくりとも動く様子がない。母が仰向けに転がすように父の体をレネからどける。真っ白い顏と、口からこぼれ出た血で、紅白の鮮烈なコントラストを描いていた。 死。ようやく、その文字が脳に浮かぶ。 どうして? こんなのおかしい。夢だ。これは、悪い夢だ―― 「レネ」 母の呼び声が、錯乱に陥る寸前のレネを引き戻した。父の返り血が擦りつけられた顔をこちらに向け、悲しく微笑んでいる。 「忘れないで。これは……これは、あなたのせいじゃない。お父さんとお母さんが、全部悪いの……」 全部悪い? どうして。今朝まで、みんな普通に暮らしていたのに―― 「お母さんたちは、何をしたの……?」 母はかぶりを振った。 「レネ。私たちのことなんて忘れて、《その日》まで幸せに生きなさい。こうすることでしか、お母さんたちはあなたに謝れないから」 「よく分かんないよ。《その日》って何?」 身を起こし、母を問い詰める。返答はない。 代わりに、優しい抱擁が返ってきた。母の温かい身体に包まれて、すこしだけ緊張と恐怖がほぐれる。 ゆっくりと抱き返した。ずっとこうしていたい。母の胸の中でなら、この惨憺たる光景も生臭い血の匂いも、全部忘れて否定できるような気がした。 しかし、甘く優しい接触は長く続かなかった。徐に母は息子の身体を離し、左右で色の違う両目を見つめて微笑んだ。 「レネ。愛してる。どうか……幸せに」 額に口づけされた。先ほどの父がしたことと全く同じように、母は愛を伝えた。 そう、口づけの直後に息絶えた父と、同じことをした。 「おかあさ――」 既に、遅かった。母は父と同じようにレネの目の前で吐血して、蹲ったまま二度と動くことはなかった。 *** ――誰か、助けて。お父さんとお母さんを治して。うちを、元に戻して。 気が付けば、玄関の戸を開けて外にいた。 誰かに助けを求めようと、街の方向へ歩く。涙が止まらなくて、嗚咽で呼吸が乱れていた。それでも歩みを止めてはいけない気がして、おぼつかない足を前へ前へと進める。 赤黒く汚れた脚。痛む右肩。自分はきっと、今血まみれなのだろう。 そう思った瞬間に、気がついた。 自分に誰かが触れたら、きっとその人は―― 止まる。父も母も、この血に触れて倒れたのだ。この血は、この体は―― ――だめだ。誰にも触れてはいけない。誰かに触れたら、きっと殺してしまう。 止まっていた踵を返す。街の方向に行ってはいけない。触れたら、触れられたらきっと、また同じことが起きてしまう。 一人でやらなくちゃいけないんだ。父と母を助けてくれる人を。自分を助けてくれる人を、一人で見つけなくちゃいけない。 七歳の夏の日。 レネは血に染まった家を出て、そして、二度と戻らなかった。 「レネ、愛してる」 両親の最期の言葉が、今も心に刺さって抜けない。 愛を示す口づけが。 自分と触れあうことが、人の命を奪うのなら。 自分は愛など受け取ってはいけない。愛されてはいけない。触れてはいけない。 誰かの命を奪うなら、愛なんて要らない。 杭のように刺さった愛の言葉が、心からずっと抜けない。 だが、この両手はそれを引き抜こうと、今でも必死でもがいて、 空を切っている。 *****3-5***** 一通り話し終えたレネは、モルテの横で苦笑していた。 モルテと出会って一緒に旅を始めたころは、この過去を話すつもりなど到底なかった。幼い子供に話すには凄惨すぎる。それにこの願望は、他人から見ればあまりにも《当たり前》すぎるから。 人に触れられない。しかし、本当は誰かと触れ合うことを、愛されることを、まるで赤子のように欲していることなど、口に出すのは気恥ずかしかった。 だが、もうここまで来てしまったのなら最後まで話すべきなのだろう。フォスの術を受ける前、モルテに訊かれたあの問い――《ここで呪いが解けたら、やりたいこと》の答えを。 「……昔、両親と過ごしていた頃のように……」 あの日々はもう戻ってこない。自分の血に触れ、父も母もとうの昔に絶命した。それでも、昔のような生活を、再び送ることができたのなら―― 「誰かを愛して愛される、そんな生活に……戻りたいんだ」 そう呟いて、自分を見つめる相棒の顏に気が付く。この話を切り上げるつもりで、小さく首を横に振った。 「すまない、くだらない願いだろう?」 苦笑が漏れ出る。目の前の相棒が、自分と出会う前にどんな人生を送ってきたのかレネは知らない。だが、自分自身を誇りに思い、心に確固たる芯を持つモルテの姿勢は、他者からこれまで愛を受け取っていなければ身につかないものだ。 そんな相棒は、愛に飢えてもがいている自分をどう見るのだろうか。 横で一言も発さずに座って聴いていたモルテの腰があがる。そのまま無言でレネの正面に立ち、座ったままのレネを見下ろした。 相棒の顔を見上げると同時、モルテはかがんでレネと同じ目線の高さで、その赤い瞳をこちらへ向けた。 「……くだらない?」 微かに、震える声。普段の様子とは違った、真剣な声色だった。 「愛して、愛されたいって……そんなの、当然の願いじゃないか……!」 炎の揺らめきが、モルテの頬に伝うものへ反射する。大きな瞳から、涙がこぼれていた。 「自分の夢を否定しないで!」 言葉が出なかった。 レネの予想を遙かに超えた相棒の反応に、なんと返せばよいのか。 《愛して、愛されることは当然の願いだ》と、今確かに相棒はそう言った。それは他ならない、レネのこれまでの旅路とこれからの道筋を肯定する言葉だった。 気がつけば、レネの両頬にモルテの指先が触れていた。フォスに頭を撫でられたあのときと同じく、温かく優しい感触が手袋ごしに伝わる。ぽろぽろと零れる涙を拭くこともせず、目の前の相棒は両手をレネの頬に当て続けていた。 「……分かったから、泣くな」 やっとの思いで返事をして、自分もモルテの指先に触れた。はめている黒い手袋の布地に、そっと触れる。 モルテと出会ったとき、魔導書を抱えるその両手は素手だった。無意識にレネの体液に触れてしまわないよう、万全を期すために相棒へ手袋の装着を依頼したことを思い出す。 誰かが自分に触れないように。誰も傷つけないように。だからこそ、距離を置く。そんな生き方を、この小さな相棒は否定してくれた。 「……ありがとう」 包むように、モルテの手に自分の手を添える。熱くなった目頭をそのままに、レネと相棒は、確かに視線を交わした。 「ううん、いいんだ」 モルテは小さくかぶりを振って、微笑する。 「……ぼくの方こそ、でしゃばってごめんね。きっと、きっと明日には……」 小さい頬へ涙が伝う。濡れた瞳がゆっくりと瞬きし、レネの視線からわずかに外れた。 そして、相棒は続けた。その声は、レネの心にわずかな曇りのような違和感だけを残し、消えた。 明日には、きっといつもの僕に、戻っているから。 *****3-6***** モルテの言ったことは正しかった。 一晩が過ぎ、朝日が差し込む室内。挨拶をした相棒は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。普段通りの自信に満ちあふれた笑みをたたえ、長く伸びた紺色の髪を手際よく整えながら編み直している。 「……体調は大丈夫か?」 純粋に気遣う意図で声をかけた。しかし、相棒は訝しげな視線をこちらに返す。何のことかと言わんばかりの顔だったが、すぐに気がついたようだった。 「ああ、あれね。ごめん、心配かけた」 「いや、それはいいんだが」 咳き込む様子は辛そうだった。あれから入念に埃を払ったつもりだったが、この室内でちゃんと眠れていたのだろうか。昨晩の表情を思い返し、ひとかけらの不安と心配が積もる。 「忘れてくれる?」 「は?」 「昨日の僕が言ったこと。どうかしてた。レネのこと、困惑させたでしょ」 そんなことは無い。確かに困惑したと言えばしたが、自分としては昨晩のモルテが話したことすべてが嬉しかったのだ。涙とともに、自分の夢を肯定してくれた言葉。頬に触れた指先の温もり。お互いに交わした視線と笑顔。忘れろ、と言われてそう簡単に忘れられるものではないし、本音を言えば忘れたくなど無い。 「モルテ、お前何を言って……」 「思い出すだけでも恥ずかしいの! わざわざ言わせないで!」 そっぽを向かれる。髪をいつの間にか編み終えており、すっくと立ち上がってスタスタ歩き始めてしまった。 「ほらレネ、行くよ! いつまで経っても王城にたどり着かないよ!」 「あ、ああ」 腰を上げた。急かす相棒に、慌ててついて行く。 「何なんだ、全く……」 レネは未だに、この小さな相棒が考えていることが、理解しかねる。 *****3-7***** 朝はあんなに暖かい光が差し込んでいたのに、いつのまにか分厚い雲がリヴァーディアの空に蓋をしていた。冷えた空気が張り詰め、薄暗い森林に漂う。湿度も急に増してきた。おそらくもうすぐ雨が降るだろう。 灰色の雲を見上げて、レネは立ち止まっていた。数メートル後ろにはモルテがついてきている――が、相棒の息はとっくに上がっていた。 モルテの調子が、やはりおかしい。数日前より明らかに足取りが重い。時折咳き込んでは歩みを止め、幹に手をつきながらふらつく身体を支えている。 日記帳を見つけて北の王城を目的地としてから、二日が過ぎていた。翌朝こそ相棒の調子は元通りに快復したが、その日の昼過ぎを境にずっとこんな様子だった。レネの手を取って一緒に歩くことは頑なに拒否し、モルテは一人でなんとか後ろを追っている。 雨の中で無理に歩けば、それだけ体力と体温の喪失につながる。近くに建物もないためできれば先を急ぎたいが、モルテの体調と性格を鑑みると簡単にはいかないだろう。 最初は、咳は埃のせいだと思っていた。だが、ずっと屋外を歩いているのに咳は酷くなるばかりだ。風邪にでも罹ったのではないのか? 思案したレネは数歩だけ引き返し、モルテの目の前に立つ。手を伸ばし、額に掌を当てた。熱はなさそうだ。 「何してるの」 相棒は訝しげにこちらを見上げている。 「……もうすぐ雨が降る。雨を凌げるところを探すぞ」 「必要ないよ、このまま進もう」 額に当てられたままだったレネの手は、徐に払われた。 「体が濡れた状態で歩けばどうなるか、お前でも分かるだろう」 「僕の魔法で防ぎながら歩けばいいじゃないか。フォスと戦った翌日だってそうしたでしょ」 その状態で魔法を使えるのか? と、喉まで出かかった。そんなことを口にしてしまえば、きっとモルテの矜持を傷つけることになる。口喧嘩している暇はない。今は休息が必要だ。 「フォスの話が事実だとしたら、ここには元国民の魔物が跋扈しているはずだ。いつ戦闘になってもおかしくない。魔力を温存した方がいい」 「君の呪いは進行してるんだよ、時間が惜しくないの!? ここで停滞するメリットが僕には分からない!」 疲労で上がった息を整える暇も無い。次第に二人の語気は荒くなっていた。 「ここは安全が確保されてる場所じゃないんだ! 無理に進むことがどれだけの危険を招くか、想像できないのか!」 「無理!? これのどこが無理だっていうの―― 突然の咳が、声を遮った。胸を押さえ、激しく咳き込む様子は止まることがない。息を吸う暇も無さそうで、レネはせめて身体の支えだけでもと思い手を伸ばす。同時に、モルテは下を向いたままがくりと膝をつき、そのまま上半身の支えを失ってレネの方へ倒れ込んだ。 「モルテ!」 とっさに身を乗り出し、相棒を支える。ずしりと体重がかかる。失神したのではないかと嫌な予感がよぎった。 呼吸を確認しようと、腕に抱えたまま顔をこちらに向ける。同時に、深く息を吸い込み荒い呼吸が耳に届いた。うっすらと瞼があき、うつろな視線が合う。 「馬鹿みたい……僕、こんな……ことで……」 「喋るな。横になれるところを探すぞ」 相棒の小さい体を背に抱える。おぶるような形でモルテの両腕を前に出し、捕まるように指示した。 自分の腕は背中側へ回し、相棒の腰を下から支えた。軽く身体を上げて、位置を調整する。普段のモルテなら、同行者に背負われるなど絶対に許さないだろう。しかし今は抵抗どころか、一言も声を発さない。 やはり変だ。身体に、何らかの重大な異変が生じていることは明らかだ。 ――せめてどこか、雨風を凌げるところが見つかれば。 心の底から祈りながら、レネは足早に歩き始める。 冷たい雨粒がぽつりと、頬を伝って流れていった。 *****3-8***** 不安は焦燥となって、歩調を早めていく。 冷たい雨が身体を打つ中、レネはモルテを背負って歩き続けていた。せめて小雨ですんでいるうちにと願っていたが――無情にも、雨足は強まるばかり。 焦る気持ちが脚を前へ前へと繰り出す。歩みはやがて小走りとなっていた。 濡れた衣服は体温を奪う。顔は上気しているが、手先足先はレネですらとっくに冷え切っていた。雨粒が木の葉を打つ喧噪の中に、モルテの呼吸音が耳へ届く。それが途切れていないことだけが、か細い希望だった。 「……レネ」 かき消えそうな、小さい声。普段のモルテからは決して聞けないような声色に、一層の不安が沸く。 「寒いのか? すまない、もうすぐ……」「おろして」 背中から、降ろしてほしい。理由は分からないが、レネは歩みを止めて聞き返す。 「降ろしてほしいのか? どこか痛むのか」 振り向いた視界の隅で、モルテがかぶりを振った。 「もう、いいんだ。ただの荷物になるんなら……捨ててもらった方がましだから」 絶句して、己の耳を疑った。 雨の雑音が、実際とは違う言葉を耳に届けたのではないか。本気でそう思った。 ――捨ててもらった方がまし? 何を馬鹿なことを。 唇をかみしめる。モルテの異変にすぐに気づけず、無理して同行させてしまった自分を恨んだ。もっと、もっと早く休ませるべきだったのに。こうなる前に、もっと相棒の体調を配慮するべきだったのに。 ――リヴァーディアへ共に向かう、と判断したのは俺だ。だから、こんなことになったのも俺に責任がある。 背負う腕に、一層の力を込める。たとえモルテが背から降りようと抵抗したとしても、離さないように。 「……二度とそんなことを言うな」 静かに叱咤する。その思いは、相棒と、そして自分自身に向けたものだった。 「オウルムを見つけるんじゃなかったのか。それに、ここまで一緒に旅して……今更捨てるだなんて出来るか」 「……」 返事はなかった。自分も特に続けず、再び歩き出す。 冷え切ったモルテの腕が、自分の胸をしっかりと抱く。その感触を確かめながら、レネはひたすらに建物を探した。 *** 数十分ほど、小走りで雨の中を進んだだろうか。 雨飛沫で濃霧のように霞んだ視界の先に、ふと、くすんだ白が見えた。 「……!」 樹の幹や葉ではない。その方向に駆けて近寄る。煉瓦だ。白い煉瓦で覆われた壁がある。 それは確かに建物だった。外壁しか見えなかったが、左右を見渡すとすぐ先に大きな玄関扉を見つけることができた。モルテを背負ったまま扉に体重を預けると、その大きさにしては意外にも軽い感触で内側へ開いた。 ――助かった。 心から安堵して、中へ一歩足を踏み入れる。二人の身体から滴る水音と足音が、広い室内で反響した。 石造りの静謐な空間が、レネ達を迎え入れる。高い天井には木製の梁が渡され、中央から円形に蝋燭を並べた燭台がぶら下がっている。 小さい教会のような印象を与える内装だった。ここは黒き禍殃の侵略を免れたのだろうか、破壊の痕跡は殆ど見当たらない。 モルテを背中から下ろし、床に寝かせる。感触は固いだろうが、それでも濡れる心配がないのはありがたい。芯から冷え切った小さい体を横たえて、額に自分の掌を当てた。やはり熱はない。普通の風邪ではない。 先日の日記に書かれていた肺病の文字が脳裏に浮かぶが、鉱石の粉塵に晒される機会など無かったはずだ。ただの埃でこうなるほど、モルテの気管は弱かったのか? 結論の出ない問答を繰り返しながらも、手を動かす。低体温症に陥る前に、今は乾いた衣服と保温が必要だ。 モルテのローブはもちろんのこと、髪と服もすっかり濡れていた。一先ずローブは外したが、問題はその下の薄緑の服だ。処置を躊躇う時間がないことは十分理解している。理解、してはいるのだが。 モルテと同行を始めてから、ひと月も経っていない。レネの体液に晒されないように、入浴はおろか極力寝食の場所もずらすようにしていた。 相棒は相棒だ。家族ではない。リヴァーディアの情報を与えてくれ、一緒に目的地まで行き、独断で危険を冒すようなことをしなければ、同行者として十分だった。相手の素性にあまり興味を持たない性分のせいで、レネはモルテの年齢も性別も知らない。 「お、おいモルテ」 「……なあに」 ――服を脱ぐ余力はあるか。いや、その訊き方はストレートすぎるか。相手は年頃の子供だ、万が一女子だった場合に傷つけない訊き方とは…… 「このままじゃ低体温症になる。俺の荷物の中に乾いた布はあるし、これもそんなに濡れてない。だから……」 首から背に纏う、緑色の布を軽く引っ張って説明する。皮肉にもモルテの身体で遮蔽されて、それは雨から殆ど守られていた。普段はマントとして使用しているが、こういう時に使用できるように纏っている。 おずおずした、回りくどい言葉。それは承知の上だが、最適解が見つからない。 モルテは身を起こし、侮蔑の視線でこちらを見た。 「……分かったから向こうへ行ってて」 「あ、ああ」 「早く後ろ向いてってば! レネのスケベ!」 「何だその言い方は! ああもう分かった、後ろを向くから!」 喋っているこっちが恥ずかしい。何を赤面してるんだ俺は、と羞恥心に苛まれながら、レネはモルテが己の背になるように向きを変えた。 緑色のマントを外し荷物の袋も足元に置いた。置いてから、もっと後ろの位置にした方がモルテにとって取りやすいことに気が付く。しかし今、後ろを振り向くわけにはいかない。 「……少し席を外す。数分で戻る」 そう。今は衣服を乾かさなければいけない。あわよくばこの建物の中に薪として使用できるものがあれば暖を取れる。 自分がいない方が、モルテとしても堂々と脱ぎやすいだろう。きっとそうだ。 「勝手にのぞき見しないでよね」 「するか!」 モルテの方向からオーバーに視線を外しつつ、レネは右奥の戸を開けて外へ出た。 *****3-9***** ――威勢を張れる体力はありそうだな。 レネは後ろ手に、通ってきた両開きの戸を閉めた。背負われているときのモルテの声はまさに消える寸前の灯火のような弱さだったが、室内に入ってからはいつもとさほど変わりが無い。ように、見えた。 実際のところ、あの威勢は殆ど《虚勢》なのだろう。今までも、今も、相棒に無理をさせすぎた。 ――今日はこのままゆっくり休もう。 正面の階段を上がりながら、レネは思案する。何らかの方法で暖をとって、モルテの体調が確実に回復してから進むつもりであった。呪いを一日でも早く解きたいのは事実だが、相棒を犠牲にしてまで早急に進めたいことではない。 考えていたら、階段を上りきった。上から降り注ぐ雨が頬を濡らす。屋外に出たことに気づいて顔を上げると、灰色の枝の群れが視界を覆いつくしていた。 眼下に、大樹が聳え立っていた。 それは家よりも、教会よりも遙かに高く、城ほどはあるのではないかと思うほどの背丈で枝を伸ばしていた。だが、葉は一枚も見当たらない。灰色に退色した樹皮がささくれている。 大樹は枯れていた。雄大な生命はとうの昔に奪われ、巨大な骸となって墓標代わりに雨天の下で立っている。 レネが立つ床は、大樹を円形に取り囲むように左右へ伸びていた。見上げれば上階も同じように円形に伸び、下層もまた同様だった。建物は円筒形の巨大な吹き抜けを形成し、大樹をどこからでも等しい距離で拝めるような構造となっていた。 根元を見下ろせば、円形の土壌が石で縁取られている。縁石の外側は水路が広がっており、さながら湖の中央に樹だけ生えている島があるようだ。 大樹。 モルテが言っていた。『僕としては、母親を大樹に埋葬したくだりが気になる』と。レネがここに訪れて最初に抱いた、小さな教会という印象は正解のようだ。ここはリヴァーディアにとっての墓地と聖堂の役割をしていたのだろう。 梢を見ると、びっしりと蜘蛛の巣が張っている。何重にも重なった糸は日光を遮り半透明の膜となって、大樹の下に暗い影を落としていた。 「こんな場所に限って……」 巣があるということは主がいる。ゆっくり休む、という計画は変更せざるを得ない。本来はすぐにでも退散したいところだが、モルテがあの状態なうえに天気は土砂降りになりつつある。なるべく主に見つからないうちに、モルテの体調を整えなければ。 モルテを背負っていたせいで、レネの身体はあまり濡れていなかった。しかし冷たい風は雨をレネの身体に吹き付けて、髪や衣服を濡らしていく。 長居は禁物だ。踵を返そうとしたその時、視界の隅で何かがきらめいた。 振り返る。反射するものは何もない、はずだった。 よく見ると、空中に水滴が浮かび、細い糸を伝って下へ垂れていく。その糸の上端は大樹の方へ消え、もう一方の先は――自分の腰へと延びていた。 蜘蛛の糸だ。 気が付いた瞬間、ぐいと強く引き寄せられ、レネの体は宙へ浮いた。 *** 半開きのままの玄関戸。隙間から線状に室内へ差し込む外の光をぼんやりと見つめ、モルテは膝を抱えて座っていた。服はすでに脱いでいる。レネが置いていった緑色の布を纏い、保温と回復に努めていた。 どこかに異変はないかと、自分の身体を確認したのは数分前のこと。レネがいない隙にと思い、取り急ぎ見回して――気がついた。 雨の雫は、空から振り落とされては地面に潰えていく。無数に繰り返される落下と消滅の様を茫然と眺めながら、モルテは苦笑した。 「……馬鹿だなぁ、僕」 冷え切った膝に顔をうずめる。 もう、引き返せない。 雨が、地面を一層強く打ち付けた。 *****3-10***** 宙に浮いたレネの身体は、瞬く間に落下を始めた。 振り子運動のようでいて、それよりも殺意のある墜落。本能的な恐怖感をおぼえた一瞬の後、叩きつけられるように水面を突き破った。 激しい水音が耳を打つ。目を開けば、あたりは鈍色に濁った水で取り囲まれていた。暗く冷たい水が体表の温度を急速に奪う。 前後左右の感覚は狂っていた。どこが上でどこが下か、光も届かず分からない。しかし、こういうときに取り乱してはいけないことは十分理解していた。浮力と重力に身を任せ、周囲を見渡す。 落とされる直前に見た光景を思い出す。大樹と円形の建物。そして、水路。自分が今いるのが水中なら、下層の水路へ叩きつけられた以外にありえない。水路といっても、河のような水流はなかったはずだ。静かに落ち着けば、どこかの縁に捕まれる。 次第に三半規管が感覚を取り戻し、水面と水底が分かってくる。数秒遅れで理解した≪上≫を見上げ、レネは浮上を試みた。 ――空気が尽きる前に、早く上へ。 水面の方へ両腕を伸ばしたその瞬間、脚に激痛が走った。 「!?」 肺に溜まったわずかな酸素を失わないよう、固く口を閉じる。見下ろすと、右脚に大きな肉食魚が食らいついていた。一匹ではない。水底から不意に現れたそれは、二匹、三匹、十匹、十数匹と――次々に濁った波から姿を現し、めいめいにレネの身体へ不揃いの大きな牙をむいてやってきた。 ブーツ越しに牙が食い込む。太ももに、腕に、次々と肉食魚に捕捉される。 夢中で魚を蹴飛ばした。水面に上がるどころではない。このままでは引きちぎられて、ばらばらに食い殺される。 藁をも掴む思いで水面へ伸ばした右手が、縁石に触れた。腕力と浮力で自身を引き上げ、顔を水と空気の境界線から出す。 本能で、深呼吸する。萎んだ肺が再び拡張するように、思い切り酸素を取り込んだ。なんとか肺の中の空気が尽きる前に水面から顔を出すことができたが、息が整う前に後方に引きずりこまれた。体が再び陸から離れ、冷たい水の中へ逆戻りする。 自らの出血で、視界は赤く煙っていた。加えて、肉食魚のぎらぎらとした体表が激しく蠢いている。獰猛な魚の筋力と、数の暴力。群れをなしたそれは、食餌を決して水中から逃がさない。 レネの血液は毒性があるのに、魚は一向に息絶える気配がない。それは、この肉食魚たちが普通の生物ではないことを明示していた。 ――こいつは、魔物だ…… 文字通り、頭から血の気が引いていく。 なんとか振り払おうと、今度は腕を下方へ伸ばした。そこで、見えない何かに手が触れる。 糸だ。糸と呼称するにはあまりにも頑強な操り糸。それが未だなお、レネの腰に巻き付いていた。いつの間に巻かれていたのか見当がつかないが、大樹の梢に巣を張った主の仕業であることは明白だった。 これを切り離さなければ、またここへ戻される。糸で空中につり下げられた人間は、あまりにも無力だ。操り手に身体を委ねるほか無くなる。 ――人形扱いするつもりか……! 心の中で悪態をつきながら、右腰の短剣を引き抜こうと左手を伸ばす。しかし、鋭利な牙で部分的に切断された左腕の筋肉は激痛にあえぎ、言うことを聞かない。 もがいている間に、右手が何者かに引っ張り上げられた。一瞬のうちに水面が眼下へ遠ざかり、みるみるうちに離れていく。 数秒の上昇の後、停止した。足先が宙にぶら下がり、赤黒く濁った水が滴っていく。見上げると、右腕に何重にも括り付けられた蜘蛛糸が雨の中で腹立たしく輝いていた。糸の先端は見えないが、おそらく大樹の梢に括られているのだろう。 まさに、危惧していたことが起きてしまった。右腕を吊られるような姿勢で、レネは無防備に宙づりになっている。 「駄目だよ、アネモス」 頭上から声がした。柔和な青年の声だ。そちらの方向を見回すと、大樹の枝の向こう側から、黒い影と長い脚が姿を現した。 巨大な蜘蛛だ。 黒と青がまだらに濁った八本の長い脚が、めいめいに伸びる。頭部の甲殻から突出した、複数の赤い瞳が視線を奪う。 さらに目を引くのが、大きく膨らんだ腹だった。下に抱えるように、巨大な卵嚢が糸で括り付けられている。白い半透明の卵嚢には十数個ほどの薄橙の卵が見え、雨天の薄日を透かして各々が蠢いていた。 優しく語り掛けるような青年の声の主とは、とても思えない。どちらかといえば、母蜘蛛のような魔物がそこにいた。 ――『駄目だよ、アネモス』。 蜘蛛の魔物は確かにそう呼んだ。おそらく足元の肉食魚が「アネモス」なのだろう。聞き覚えのある名前だ。フォスが呼んだ人名の一人に、アネモスの名前があったはずだ。だとすると、この蜘蛛は「イスキオス」か「フォティア」なのか? レネは蜘蛛を観察しながら、何も声を発さずにアネモスの返答を待った。 この魔物たちも、侵略前は人間だったはずだ。おそらく、フォスの知り合いか、同僚か。 こちらは、魔物退治に来たのではない。敵対する理由はなかった。情報が欲しい。もしかしたら、事情を話せばこの状態を脱することができるかもしれない。 肉食魚が、返答する。 「兄さん、どうして! やっと帰ってきたんだ、早くこんな奴殺しちゃおうよ!」 「そうだよ! どうしてわざとぼくから離すの!」 「こっちに返して、兄さん!」 肉食魚それぞれが、口々に叫んだ。モルテとさほど年が離れていなそうな、幼気な少年の声だ。信じがたいことに、その声のどれもが同じ声だった。ひとりの人間が一気に十数個の口を有したかのように、全く同じ声質が方々から聞こえる。 ――まさかとは思うが、これすべてが「アネモス」なのか? めいめいに殺意を孕んだ声を返し、あたりは一気に騒々しくなった。両手が開いているのなら、耳を塞ぎたい。 「アネモス。前にも言っただろう? 彼女はね、裏切り者なんだ」 蜘蛛の長い脚が伸び、レネの首につんと触れる。ひやりと固い感触が走った。 「もちろん生かして返すつもりはないよ? けれど確かめようじゃないか。どうして……」 蜘蛛から発せられる青年の声は、猫を撫でるような優しさを帯びていた。しかし、そこから紡がれる言葉に、レネの背筋は凍った。 「どうして、皆を置いて、自らの責務も捨てて……リヴァーディアから逃げたのか」 *****3-11***** ――彼女? 逃げた? 話が見えない。今確かに、蜘蛛の魔物は自分を『彼女』と呼称した。そもそもアネモス達と自分は初対面のはずだ。恨みを買う覚えはないし買いようがない。 そういえば、魔物化したフォスは自分と母を間違えていた。もしかしたら、この兄弟も―― 「ねえイリオス。僕のことが分かる?」 蜘蛛が、顔をこちらに近づけて尋ねた。分かるわけがないだろう、お前と俺は初対面だ。そう返したいが、正直に返したら二秒後の自分がどうなっているかは想像に難くない。 「イスキオスだよ。久しぶりだねイリオス――お腹の子供は元気かい?」 お腹の子供、これはおそらく自分のことだ。だが、蜘蛛の魔物――イスキオスにどうやって返答するのが正解なのか。言葉に悩んだ。 「ああちょっと待ってね。ねえイリオス、僕も君と同じになったんだよ。もう産まれそうなんだ」 「産まれる……?」 イスキオスは脚をレネの首から離し、糸を吐いて枯れ枝へ器用に飛び移った。レネとアネモス達が見守る中、卵嚢がまとわりついた腹を下方へ向けて天を仰ぐ。 そのまま数秒の静止の後、イスキオスはささやかな声を上げた。それを形容するなら苦悶のような、もしくは一時の嬌声のような短い声だった。小さく叫ぶような声の後、悦びに満ちた吐息が上がったと同時、イスキオスの卵嚢が内側から食い破られた。 卵を破って出てきたのは、魚だった。足元のアネモス達と同じ、牙が並んだ肉食の魚だ。十数匹ほどの魚は枯れ枝から下へ落ち、水しぶきを上げて元々のアネモス達と合流した。 アネモスの数が、倍に増えた。 一体どういう理屈で蜘蛛の卵から魚が産まれるのか分からなかったが、イスキオスは弟のアネモスを孵化させ、数を増やしたのだ。新しく生まれたアネモスと、もともとのアネモスは見分けがつかない。体格すら、どの個体も殆ど大差がない。 これではまるで、《複製》だ。 「……随分と気持ちの悪い特技だな」 糸にぶら下がりこちらへ戻ってきたイスキオスに、雑言を吐く。 「気持ちの悪い? そんな悲しいことは言わないでおくれよ。アネモスは脚が悪いんだ。こうして僕が守ってあげないと死んでしまう。それはイリオスだって、嫌だったはずだろう?」 「だからって増やすのか?」 「そうだよ。僕が食べて、卵にして、増やして――そうして守っていくことが、それこそが、愛なんだ」 ――愛? 食べて、増やすことが、愛だと? イスキオスが紡ぐ言葉が、理解できない。理解の範疇をとうに超えて、正気のレールを踏み外している。弟を食餌にすることを、愛という都合のいい表現で正当化しているとしか思えなかった。 「自分のお腹の中で守って……アネモスの鼓動を、体温を、胎動を感じて……。ようやく僕も分かったんだ。自分の中でかけがえのない家族を守ることが、こんなにも愛おしいことだって」 晴れやかな声だった。蜘蛛の口から吐き出される声は、慈愛に満ちた歓びの色を孕んでいた。だからこそ、それが余計に嫌悪感を募らせる。 「イリオス。今の僕なら、あの日のきみの心を分かってあげられる。あの日……」 固く細長い脚が、今度はレネの腹部を小突く。先端が少し刺さり、ちくりと痛みが走った。 「黒い厄災が国を攻めたあの日、イードル隊長と一緒に逃げただろう。それは、お腹の子を守るためだ。もうすぐ産まれる大切な家族を、守り抜きたかったんだ。リヴァーディアの外に逃げることが、禁忌だと分っていても。それでも、君は規則より家族を優先した」 ――禁忌? イスキオスの猫を撫でるような声のトーンが、冷ややかに落ちてきた。強い怒りと、恨みの念がこもる様に……レネの腹部を小突く脚の先端が、じりじりと強く食い込んでくる。 「僕たち……きみも、《選ばれし者》で良かったよね。障壁を通り抜けられるものね。《選ばれし者》の義務である、国の護衛――騎士としての責務を放棄して、まだ闘っていた僕たちを置いてリヴァーディアの外側に出たときはどんな気持ちだったの?」 「騎士……?」 国の護衛だの、騎士だの、蜘蛛の魔物は想像もしえない単語を提示してきた。この話が事実なら……父は、母は。 ――二人は、国を守る騎士だったのか? 黒い厄災がリヴァーディアを侵略した日、二人は自分を守るために、国の護衛の任務を捨てて国外へ逃亡した。森に囲まれた国から逃げて、遠く離れた海辺の地で自分を育て、リヴァーディアを忘れて、平和に暮らして――? 父も母も、昔話をしようとはしなかった。それは、単に母国が滅んだからではない。自分たちが課された義務を放棄して、戦火と呪いにあえぐ仲間も家族も友人も捨て、罪を背負ってリヴァーディアの外へ逃げたから――? 「僕たちの姿を見るんだ。イリオス」 イスキオスは、冷酷な声をレネにぶつける。 「醜いだろう? 僕たちは元の人間の姿など微塵も残っていない、蜘蛛と魚の魔物だ。黒い厄災の呪いが、僕たちの姿を変えたんだ」 「兄さんも、ぼくたちも、苦しんだ。フォスさんも、フォティアも、アルカ様だって、みんなみんな、苦しんで今日まで過ごしてきた」 「何人死んだと思う? 何人の国民が、きみたちのせいで命を落としたと思う?」 「裏切り者」 優しい声に、怒気が含む。トーンが一段階落ちた声は、深い恨みを帯びていた。 「裏切り者」 「裏切り者!」 「裏切り者! 裏切り者! 裏切り者!」 イスキオスの叫びに、アネモス達の罵声も加勢する。四方八方から罵られ、レネは耐えられなくなり目をつぶった。 「お前たちは国を捨てた! 障壁を通れる《選ばれし者》であることにかこつけて、国を守る騎士のくせに、我が身と子供が可愛くて国を捨てた! 裏切り者め!」 ――煩い。 ――やめろ、もうやめてくれ。 ――騎士? 父さんと母さんが、この国の騎士だった? そんなこと知らない。聞いていない。 この狂った母蜘蛛気取りの青年と、これ以上対話をする気力はレネには残されていなかった。 *****3-12***** 「やめてくれ! そんなに魔物の身体が嫌なら、フォスみたいに人間の姿でいればいいだろう!」 吐き捨てるようにレネは叫んだ。喧々囂々としたこの状況を、一刻も早く中断させたかった。怒号が響いたのか、イスキオスもアネモス達も、一斉にしんと静まり返る。ふいに戻った静寂の中、雨の音だけが囁いていた。 フォスも魔物だ。しかし、平時は人間の姿だった。そこまで魔物化を嘆くのなら、なぜ人の姿に戻らない? 「……フォスさん、馬鹿な人」 水面から、アネモスが話し始めた。 「あの人は隠せるから」 「魔物の姿を隠せるから」 口々に、隠すという言葉を呟くアネモス。弟の言葉に添えるように、イスキオスは再び優しく呟いた。 「彼女は隠す能力がある。外見は人でも、本質は僕たちと同じ。その隠す力も長くは持たない」 隠す能力。ようやく合点がいった。何故、フォスが途中で魔物の姿に変わったのか。何故、レネの呪いと右目を封じることができたのか。双方とも、ただ隠蔽していたのだとしたら、フォスと出会ってからのすべての事象に説明がつく。 ただ、その力も長く持たないのなら、この兄弟は今までもずっと―― 「黒い厄災の侵略から生き延びた人は、皆が魔物になった。人の体を捨て去り、醜い姿で永劫の時を過ごすんだ。……ねえイリオス。きみたちは逃げたら、その運命から逃げられると思ったの?」 イスキオスは脚を曲げ、固い甲殻の前面でレネの右頬を撫でつける。雨に濡れ、ひやりとした感触が呪いの紋様をなぞった。 「この糸で首を絞めてやる。気を失う前に腹を割いて、中の子供もずたずたにしてやる。その後、ゆっくりアネモスの餌になればいい」 イスキオスが叫ぶ。怒りをぶつけて、尚続けた。 「僕たちはお前を許さないよ。リヴァーディアを捨てて、自分たちだけのために生きるお前たちを、絶対に許さない。イードル隊長も、イリオスも、中の子供だってそうだ。お前達みんな罪人だ。人を愛する資格なんて無い。愛される資格も無い。……無いんだ!」 ――愛される資格なんて、無い? 吐きたいほど大量の罵言を浴びせられ、レネの思考は疲弊しきっていた。『人違いだ』と訂正することも、『そんなことは違う』と否定することも、脳内からは消え果ていた。裏切り者だ、罪人だ、許さない、そんな言葉で雁字搦めにされていた。 ――最初から、間違っていたのか? 愛を求めることも、愛を見つけることも、最初から許されていなかったのか。そんな資格は、無かったのか。父も母も大罪を犯し、その胎(はら)から出てきた自分も、罪に汚れていたのか。それならば、ここで死ぬのが正しいのか。 できることなら昔のように、両親に愛されて育った頃へ戻りたかった。けれど、そんな願い……持つべきでなかったのか。 ぼやけた視界が、イスキオスの瞳を映した。雨に濡れ、赤がてらてらと輝く。 ――そうだ、あの時のモルテの瞳も、赤だった―― 星空の下。涙に濡れた赤い瞳で、モルテがレネを諭した夜。愛を求める願いを『くだらない』と自嘲したレネに、モルテは赤い瞳で泣きながら訴えていた。 『愛して、愛されたいって……そんなの、当然の願いじゃないか……!』 ――そうだ。モルテは、肯定してくれていた。愛を求める自分の願いを、支えてくれていたじゃないか。 ――戻らなきゃいけない。寒さに震えながら待っている、相棒の元へ。 レネは意識して瞼を閉じた。雨音に耳を澄ます。身体を打つ雨粒の感覚に、全身を研ぎ澄ます。左腕と脚は噛まれた痛みで熱を帯びている。だが、その痛みがレネを現実へと戻してくれる。 ――愛される資格も、愛する資格も無い? 勝手なことを言うな。それを決めるのはお前じゃない。 ――ここで死ぬわけには行かない。自分が旅をする理由を、ここまであがいてきた理由を肯定してくれた相棒の元へ、戻らなきゃいけないんだ―― 「死ね!」 黒い口を開けて、イスキオスがこちらへ向かってきた。と同時に、レネは右足を高く上げ踵落としの要領で蜘蛛の頭頂を踏みつけた。 「がっ……!」 赤々と光る複数の瞳が下を向き、レネの足元へイスキオスが首(こうべ)を垂れる。 そのまま頭部へ両足をつけ、上へ乗る形で着地した。 イスキオスがなんとかレネを振り落とそうと枯れ枝の上で暴れるが、それは想定内だ。上方へ体を反らしてくれたおかげで、ようやく両膝を曲げることができる。イスキオスの頭部へ跪くように座ることができた。 たわみができた右腕の糸を引き下げ、腰の糸と一緒に右手に巻き付けた。アネモスに噛みつかれた左腕の激痛をこらえ、なんとか短剣を引き抜く。そのまま右手に巻き付けた糸を、切っ先で切り離した。 *****3-13***** これで自由だ。すぐさま、短剣を右手に持ち替える。暴れるイスキオスの頭部と腹部をつなぐ関節めがけて、逆手に勢いよく振り下ろした。 「ガアアアア!!」 「兄さん!」 手応えはあった。赤紫の体液が傷口から吹き出し、大蜘蛛は一層激しく暴れる。両腕で頭部を抱え込んで、なんとか振り落とされないようにしがみついた。 眼下にはアネモスが待っている。水面に落とされれば、命はない。 もう一撃。右腕を振り上げたそのとき、背後から声がした。 「レネ! こっちだ!」 吹き抜けの外回廊に、モルテが立っていた。相変わらず肩で息をしていたが、言われたとおりにちゃんと緑の布を羽織っている。裾から右手を出し、魔導書を構えていた。 「お前……! なんでここに!」 「『待ってろ』とは言われてないよ!」 ――屁理屈だ。だが、確かに『待て』とは言わなかったな。 どちらにせよ、おそらくモルテはここへ来ていただろう。まっすぐにレネを見つめる、モルテの夕焼け色の瞳。あまりにも綺麗で、眩しかった。 『萌芽(アロ・アルボス)!』 外回廊から、大樹の方向めがけていくつもの太い蔓が生えた。モルテの魔法の効果だろう。蔓は互いに絡み合って強固な足場を形成し、レネをモルテのそばへ誘導するように伸びた。イスキオスから離れ、蔓の上に飛び移る。 「逃げるな! 裏切り者!!」 後ろから、柔和な青年の声とは思えない叫びが聞こえた。蔓の上を走りながら確認すると、イスキオスが長い八本脚を繰り出してこちらを追っていた。 モルテと合流する前に、イスキオスを食い止めなければいけない。相棒は万全の状態ではない。それに、詠唱には時間がかかる。レネは振り返り、蔓の上で立ち止まった。短剣から長剣に持ち替えて、構える。 赤紫の体液を頸から垂れ流し、八本の脚をもつれさせながらイスキオスはこちらに迫っていた。蜘蛛の頭部にはめ込まれた幾つもの瞳は、燃えるような赤だ。表情は見えないが、執念と憎悪で塗りつぶされているのだろう。 家族を守りたい。 イスキオス・アネモスも、イリオス・イードルも、その気持ちは同じだったはずだ。片方は呪いで醜い姿へ変えられ、もう片方は人の姿のまま息絶えた。 ――母の胎に自分が居なければ。侵略の日、両親は武器を取って仲間と共に国を守っていたかもしれない。侵略者を撃退できれば、自分は両親とリヴァーディアに居たのだろうか。平和なリヴァーディアで、イスキオスやアネモス、フォスとも、穏やかに談笑している未来があったのかもしれない。 両親を国の外へ導き、両親の命を絶ち、かつての仲間に憎悪の念を抱かせた。そのどれもが、……その、どれもが、自分のせいだ。 ――だけど、それでも。 「……すまない」 レネは視線を伏せて呟くと、薙ぐようにイスキオスの前脚を斬った。 「ぐっ――」 バランスを崩して、蜘蛛が水面へと落ちる。 その瞬間を、モルテは逃さなかった。すでに詠唱は完了している。 『――雷鳴(マレウス)』 鼓膜へ響く轟音と、思わず顔を覆う閃光。あたり一帯を瞬時に覆い、一筋の稲妻が大樹を取り囲む水面へと落ちた。 *****3-14***** モルテの放った雷鳴は、水中のイスキオスとアネモス達を貫いた。 激しい電撃。脊髄に、脳に、殴られたような衝撃が貫く。痛覚すら認識できないほどに、全身の神経がはじけ飛ぶ。複製されたアネモス達のそのどれもが、同様に雷撃を受けた。免れた者は一匹としていない。 アネモス達の意識は、瞬く間に霞んで遠ざかっていく。視界がぼやけ、兄によって複製された自分たちで埋め尽くされた光景が、混じりあって濁っていく。 ――どうして、こうなったんだっけ。 鈍麻した思考回路で、アネモス達は思った。 ――こんなはずじゃ、なかったのに。 枯れ果てた大樹の根元で、蜘蛛の姿になった兄と過ごす日々。毎日のように自分たちの誰かが兄に捕食され、卵になり、数が増えて水中へ還る日々。 いつしかそれが正しきことだと思うようになっていた。兄に食べられ、兄の胎の中で一つになり、卵嚢のゆりかごで眠る。別の魔物に襲われても、兄が自分を増やしてくれれば、問題ない。死が自分たちを分かつ日は、絶対に訪れない。 これでいいんだ。これで、ぼくと兄さんはずっと一緒に―― ――本当に、それでよかったんだっけ? そうだ。頭蓋に駆けるこの衝撃。《あの日》の戦いで受けたときと、似ている。 それは、アネモスとイスキオスが人の姿でいられた最後の日の記憶。 黒い厄災が侵略し、リヴァーディアが滅んだ日の、記憶。 *** 魔物が放った蔓の鞭は、いとも容易くアネモスの車輪付きの椅子を破壊した。 派手な音を立てて砕けた座面から放り出され、アネモスの身体は背後の瓦礫へと打ち付けられる。後頭部が瓦礫の角へぶつかり、火花が飛ぶほどの衝撃を受けた。 思わず手を当て、出血を確認する。一つに結った金髪と右手から、鮮血がしたたるのが見えた。 「アネモス!」 視界の前方で、イスキオス――兄が、槍を構えながらこちらを振り返る。 大丈夫、と言いたかったが、ガンガン響く頭痛と高熱で声を出すこともままならない。 アネモスの瞳が赤く染まったのは今朝のこと。昼前には全身に紫の紋様が浮かび、それが隙間なく肌を埋め尽くしたと殆ど同じタイミングで高熱が始まった。狼狽した兄はフォスへ魔導具で連絡を試みようとしたが、何度かけても応答がない。 仕方なく二人は自室を出て、同じ棟のフォスの自室へ向かっていた。その途中で大型の魔物に遭遇し、戦闘を余儀なくされたのだ。 槍を操るイスキオスをサポートし、魔物に魔法で攻撃するのはアネモスの役目だ。だが、何度詠唱しても、アネモスの魔法は発動しない。いつの間にか視界は黒い霧がかかり、高熱のせいで敵を確りと視認することすらやっとのことだった。 ――ぼくだって、騎士なのに。 茨と蔓を生やし、巨大な毒花を咲かせた大型の魔物。協力するどころか、足を引っ張っている。情けない。あまりにも、今の自分は無能だ。 兄に詫びようと口を開いたと同時、アネモスとイスキオスの魔導具が光った。オウルムの細工に宝石をあしらわれたそれが光るということは、通信用の魔法による着信が入ったことを意味していた。 イスキオスは応答する暇がない。アネモスもそれどころではないが、思わず魔導具に応答してしまった。 そこから聞こえた声は、まぎれもない悲鳴だった。 『アネモス様、襲撃です! 至急南門へお願いします! 何者かが、黒い焔を!』 着信はそこで途切れた。同時にまた別の着信が入る。そちらも応答すると、全く別の場所での救援要請だった。城内に出現した、大型の魔物。同時に、襲撃と救援の要請。あまりにも異様だった。緊急事態が多発している。 ――何が、この国でいったい何が、起きているの? 着信を切り兄の方を見上げると、兄の槍が毒花の魔物の身体を貫いていた。赤紫の返り血も厭わず、兄は槍を引き抜き何度も魔物に突き立てる。 「兄さん……! 救援要請だ! 南門と居住棟と……大審院の方からも!」 イスキオスは魔物が絶命したことを確認すると、こちらを振り返った。返り血を軽く袖で拭い、槍を背中に背負う。アネモスを抱えようと両手を伸ばすが、アネモスはその手を制した。 「兄さん、ぼくを置いて、行って」 ――ぼくなんて、いない方が。 魔法も使えない。それどころか、高熱で意識をつなぎ留めておくこともままならない。それなら、自分を置いて、兄一人で民の救援に向かってもらった方が。このままでは……以前からそうだったが、完全に兄のお荷物だ。それならば、せめて。 しかし、兄は両手をアネモスの肩に置いて言った。泣き出しそうな顔を横に振り、アネモスの提案を否定する。 「アネモスを置いてどこへ行くというんだ……! そんなことを言わないで。僕がアネモスも、助けを求めている人たちも守るから」 「でも、兄さん……」 「駄目なんだ……アネモス、きみがいないと……きみがいないと、僕は……」 イスキオスの手に、力がこもる。指先がアネモスの肩に食い込んだ。イスキオスの声は震えていた。 ――ぼくがいないと、兄さんは? 違う。それは違う。アネモスは理性と本能の両方で、兄の嘆願を否定する。 ――ぼくがいない方が、兄さんは戦えるじゃないか。いつだってそうだ、ぼくを守って、ぼくを助けて、ぼくをかばって。そんなの完全に、お荷物じゃないか! 捨ててくれた方が。置き去りにしてくれた方が、楽なのに。どうして? 「アネモス。きみは僕の弟なんだ。たとえ魔法が使えなくたって、立てなくたってかまうもんか。きみが傍にいてくれれば、それだけでいいんだよ」 涙で濡れた緑の瞳が、まっすぐにこちらを見つめた。角膜に光が反射して、とても、綺麗だ。 イスキオスはアネモスの肩と膝の下にそれぞれ腕を入れ、確りと抱きかかえた。何度も感じた、兄の優しい体温と息遣いを、全身で感じる。 「これで……これでいいんだよ、アネモス。何もできなくたって構わないさ。きみの価値は、きみの存在理由は、それだけじゃないんだよ」 「これで、いいの……?」 高熱で蕩けた思考は、兄の甘言を受け入れる。 「……いいよ。アネモス、一緒に行こう」 ――これで、いいんだ。 ――兄さんと一緒に居られるなら……それで、いいんだ。いいんだよね。 アネモスはそっと目を閉じた。 囁くような兄の言葉を繰り返し、繰り返し受け入れていた。 *****3-15***** リヴァーディアで兄と共に騎士をしていた頃は、いつかこの脚も治って、昔のように兄の隣で立って笑いあえるような、そんな未来を夢見ていた。 だが今はどうだ。この魚の姿はどうだ。兄の隣に立つはずの脚も、抱きしめてくれる兄を抱き返すはずの腕も、もうない。兄が喜んでくれた笑顔も、もうできない。 何もない。何もできない。それでも兄は、そんな自分を想って、いつでもそばにいてくれた。 嬉しかった。兄に愛される悦びは、いつしか過去の自分が抱いていた目標を甘く融かして流していった。兄を支えたい、対等に立ちたいという夢は、いつの間にか形が崩れて蕩けていった。 ――こんなはずじゃ、なかったんだ。 ――これじゃ、だめだったのに……。 *** モルテの雷撃を受けたアネモス達は、水面に次々と浮かんだ。腹を上にして力なく浮上する魚の群れは、円形の水面の大半を埋め尽くす。イスキオスも同様に水面から浮上するが、八本の脚をもつれさせながら辛うじて自力で陸に上がった。 「あ、ああ、あああ……アネモス……」 動物が池の水を飲むように、巨大な蜘蛛が水面に顔を近づける。一匹のアネモスを複製しようと、黒い口と触腕を動かし、なんとか拾い上げようとしていた。 しかし、アネモスは息絶えていた。イスキオスの口の中で黒い焔が燃え上がり、ぐずぐずに崩壊した少年の遺体が蜘蛛の口角から零れ落ちていく。 「あ、ああああ、ああああああ」 見る影もない。一塊の灰は雨に穿たれて、地面と水中に黒い汚れとして沈んでいった。 イスキオスの悲鳴が激しい雨音にかき消される。階下に降りながら、レネとモルテは項垂れる蜘蛛を見下ろしていた。 レネとモルテがイスキオスのそばにたどり着いた、その時だった。 「……っ貴様あああああ!!」 イスキオスが顔をあげ、レネの方へ飛びかかってきた。悲鳴が混じった慟哭があがり、レネの視界を覆いつくす。 レネの反応は早かった。イスキオスの腹部めがけて剣を振り上げ、突進をはじき返す。一瞬の隙を見逃さず、切っ先を返して頸へ思い切り突き刺した。 「がっ――」 赤紫の体液。そして、刃を伝って感じた確かな手ごたえ。甲殻も、中の体組織も確実に断裂された感触と共に、イスキオスの短い断末魔は途絶えた。 赤い瞳から、光が失われていく。イスキオスの意識は、急速に遠ざかった。 ――アネモス。きみがいないと、僕は……僕は、だめだったのに。 ――アネモス。僕の、最愛の、弟。 ――きみが居てくれたから。きみが僕の隣にいてくれたから、僕は…… ――僕は、騎士でいられたんだ。 それは、リヴァーディアが襲撃に遭うよりも少し前のこと。 まだ自分たち騎士が、七人で活動していたころの話。 *****3-16***** アネモスが眠ったのを確認し、イスキオスは部屋の明かりもつけずに外套を纏った。窓の外を見上げ、空模様を確認する。今日は新月。黒い服を纏い、人目を忍んで活動するのにこれ以上の好機はない。 音を立てないように、そっと自室のドアを開けて外へ出た。鍵を取り出し施錠しようと振り返る――その時、ドアノブに提げられた麻袋を見つけた。 外して中を確認する。開封すると微かに生臭いにおいと、冷たい空気が漂った。 魚だ。王国の中央に走る河から採れる魚が、一匹中に入っている。 「どうして、これが……」 イスキオスは目を疑った。 ――ちょうど、これを摂りに行こうとしていたのに。 「今晩は」 背後からの声に、イスキオスは咄嗟に振り返った。 見慣れた人影だった。病的なほどの痩躯に、女性のような長い黒髪。ちょうど男性の平均身長ほどはあるイスキオスが軽く見上げなければいけないほどの長身。同じ騎士の仲間である、セリーニがそこに立っていた。 「……この魚は、きみの物かい?」 室内のアネモスに聞こえないよう、イスキオスは声色を落として尋ねた。 「その通り。だが、たった今を以てそれは君の物になった」 相変わらず、何を考えているのか読み取れない微笑だった。セリーニは表情を崩さず、イスキオスの方へ一歩、また一歩と徐に近寄る。 「セリーニ。お見舞い品のつもりかもしれないけど、生憎これは食用じゃ――」 「知っているさ。血液に神経毒が含まれていることは、薬学を嗜んでいる者なら常識。……転じて、有用な毒薬の原料となることもね」 イスキオスは目を見開いた。麻袋を開封したときにまさかとは思っていたが。 ばれている。いつのまにか、知られている。 「……どうして」 「アネモスの脚について、少し考えれば解ることだ。フォスの治療が効かず、軽快と悪化を繰り返す。説明がつくのは難治性の病か、若しくは……近親者の恣意的な処置。その何方(どちら)かだろう?」 セリーニの切れ長な瞳が、こちらを捉えていた。視線に全身を絡めとられ、一歩も動けなくなる。 「……僕を告発するのか?」 「まさか! そんなことをしたら、優秀な騎士をまた一人喪ってしまう。弟君も、慈愛と献身に溢れた兄と離れ離れだ。誰も幸せにならない」 薄い唇を開けて、セリーニは嗤った。 告発するつもりでないなら、どうして彼はこの場にいるのだろう。昔からそうだったが、彼の言動や目的を理解できない。それが余計に畏怖と焦燥を煽って、背筋が凍りそうだ。 「なら、どうするつもりだ?」 セリーニの返答はない。代わりに差し出されたのは、セリーニ自身の右手だった。白く細長い指が、イスキオスの髪を撫ぜる。ひと房だけ長く伸ばしているイスキオスの金髪を掬い上げて、くるくると指に絡ませた。 「協力してあげよう。私が定期的にその魚……若し怪しまれるのであれば、精製した毒そのものを君に提供する。私は君の行動を固く秘匿することを約束しよう」 「信用できない。それは、きみに何のメリットもないはずだ」 「あるさ! 穏やかで優秀で、仲間を守りながら槍を振るう騎士の鑑である青年は、己の立場を確保するために弟の脚を傷つけていた! こんなに面白くて興味深い事実が他にあるか?」 イスキオスは返答できなくなった。セリーニの口から発せられた言葉一つ一つが、残酷なほどに真実を描いていた。勘違い、事実誤認、すがりたくなるようなすれ違いはただの一つもない。セリーニは完璧に、イスキオスを理解していた。そのうえで、掌の上で転がすように彼の弱みを握っていた。 視線も、口も、呼吸すらも。すべてを握られて、このまま押し潰されそうだ。 硬直したイスキオスの肩に、セリーニはそっと手を置く。耳に顔を近づけて、優しく優しく、囁いた。 「見ていてやろう。だから……どうか、そのまま続けて?」 ――不安だった。 同じ《選ばれし者》なのに、僕と弟アネモスではこんなにも才能に差があることに。 リヴァーディアの子供は、一定の年齢を迎えると試練を受ける。国土を覆う魔法障壁に触れさせ、身体が通り抜けるかを試すのだ。普通ならば、通り抜けなどできない。元来、魔法障壁は内外の人の往来を断絶することが目的だから、それは当然のことだった。 しかし、数年に一人のペースで障壁を通過できる子供が現れる。《選ばれし者》と呼称されるその者たちは、豊かな生活と引き換えに騎士としての活躍を義務付けられる。 イスキオス、その弟、アネモス。二人も、騎士としての活躍を強いられた兄弟だった。だが、魔法の才もなく、他の騎士ほどの力もないイスキオスは、自らの立場を確保するために一つの方法を選んだ。 神経毒。 脊椎から腰の神経を狙って注射すれば、下半身の神経が侵されて脚の麻痺を狙えるという。もともとは脚の怪我を処置する際に、麻酔として使用されるこの手法をイスキオスは悪用した。 アネモスを睡眠薬で眠らせ、寝ている間に注射器で腰に毒を入れる。毒を入れた後は注射針を抜き、確りと片付けた後、弟の頭を撫でながら隣で眠るのだ。 弟の寝息を感じ、弟の体温に触れ、微睡みの中に落ちていく。その感覚は至福以外の何物でもなかった。 ――アネモス。有難う。きみがいてくれるから、僕は……僕は騎士でいられる。 ――きみがいないと駄目なんだ。きみが僕のそばにいてくれるなら、僕は…… *****3-17***** 大蜘蛛の身体は脱力し、赤紫の体液を垂れ流しながら地面に横たわった。数秒の後イスキオスの身体も燃え上がり、灰から青年の遺体が姿を現した。 レネは視線を伏せる。リヴァーディアに住む民も、黒い厄災の被害者だ。だれもこんな未来を望んでいなかった。明日も平和に笑いあえる日が来ると、そう信じていたはずなのに。 土砂降りと形容するほどの雨が、厳しくレネを打ち付けていた。アネモスに噛まれた腕は痛み、イスキオスに投げかけられた罵詈雑言で心も打ちのめされていた。 「戻ってまた服を乾かすぞ、モル―― 喋りながら振り返ると同時。相棒の身体がぐらりと倒れ、レネの足元へばたりと倒れた。 「モルテ!」 呼びかけながら肩を叩く。浅く長い呼吸をしているが、顔は白く体温をまったく感じられない。 レネが貸した緑の布がはだけ、首から胸にかけて白い肌が露になっていた。 「え……?」 見間違いだと思いたかった。 傷口か、土汚れか、はたまた似たような入れ墨か。 モルテはリヴァーディアになんの縁もゆかりもない。だから、そんなことはあり得ない。絶対に、ありえない。 しかし何度目を凝らしても、それはそうとしか思えない模様を描いていた。 モルテの肌に、紫の紋様が浮かんでいる。それは紛れもなく、自分と同じ、呪いの証だった。